関ヶ原に布陣しているとき、西軍では小早川軍と毛利軍が徳川方と内通していた。
合戦が始まれば、小早川軍は西軍を攻撃するという密約が、徳川家康と結ばれていた。
毛利軍の不戦の密約が、吉川広家を通じて徳川方と結ばれていた。
その起請文(きしょうもん)には「家康は〔毛利〕輝元をいささかも粗略にしない。忠節が明らかとなったならば、家康直々の墨付を輝元に渡す。」という内容であった。
この起請文を吉川から受け取った輝元は、安心しきって大阪城から退去した。
ところが家康の講和は、起請文を裏切る結果となった。
輝元は中国8か国のうち安芸や石見・備後などの領地を削られ、周防と長門の2か国だけが残された。
毛利氏は外様大名に転落し、112万石から36万9000石になり、長門の萩に押し込められた。
武士は禄を削られ、百姓は重い年貢で苦しんだ。
毛利藩の関ヶ原以後の徳川家への恨みは、島津藩の数倍も勝るものであった。
徳川家打倒の怨念は、100年を過ぎても衰えなかった。
長州藩では新年の萩城年賀式で、奇妙な問答が行われた。
藩主の前に上席家老が進み出て、
「今年はいかが、いたしましょうや」と言上(ごんじょう)する。
「いや、まだ早いであろう」と藩主が答えて、秘密の儀式は終わる。
すなわち徳川家に隙ができ次第、討ち滅ぼそうと機会を狙い続けていた。
こういう空気があるから、吉田松陰のような過激な尊皇攘夷主義が発生することになる。
5代藩主・吉元は財政の改善に乗り出し、そのためには人材養成が必要だと考えた。
1719年には、藩校・明倫館を建てた。
明倫館跡〔萩市〕
これは全国的に見ても、早い時期の学校教育であった。
さぼ