島津家が鎌倉に1779年に、頼朝と忠久の墓を建てたのに刺激されて、毛利大名は、大江広元の墓を鎌倉に建てることになった。
毛利大名は島津大名と、覇権を張り合っていたからだ。
行政長官〔鎌倉殿の13人〕大江広元
墓を建てたのは1823年で、頼朝の墓の再建より54年後のことであった。
墓の再建は、藩士の村田清風が命じられた。
彼は江戸の和学講習所で国学や兵学を修めた。
村田清風
郷里・長州に帰ると藩士に採用されたが、藩主敬親の時代には、兵制学制の改革をおこなった。
大江家は平城天皇の子孫であり、平城帝は万葉集を編集したとも言える。
その影響もあって、清風は和歌や連歌・俳諧の学才があった。
鎌倉には、清風の句碑もたてられている。
大江広元の墓は五輪石塔で、島津忠久墓に向かい左側にある。
墓の前に広元についての説明の石碑が建っている。
大江広元墓〔鎌倉市〕
村田清風は引退した後、吉田松陰らを育てた。
松蔭がさらに松下村塾をつくり、その子弟による明治維新へと引き継いで行く。
さぼ