25代藩主・重豪(しげひで)は、学問好きで藩校の造士館を建てた。

後に鹿児島に旧制七高ができたが、それは正式の名は第七高等学校造士館であった。

 

重豪は「明時館」という天文台も作ったが、その跡地は繁華街となり、今は天文館通りと呼ばれている。

 

 

 

天文館跡の碑

 

 

 

島津家の祖・伊豆で生まれた島津忠久〔伊東千鶴丸〕の墓を、重豪は鎌倉に建てた。

それは、忠久の親・頼朝の墓を建てた同じ年であった。

 

その墓は、頼朝の墓から近い法華堂跡にある。

これは五輪塔の形となっている。

墓の右には玉垣があり、墓の階段の下には鳥居が建てられている。

 

それは1779年〔安永8〕で、ペリー来航の74年前のことであった。

近くに藩士を住まわせ、墓を守らせた。

忠久の子孫が鹿児島に城をつくったとき、忠久の幼名・千鶴丸の名にちなんで、鶴丸城と名付けた。

 

 

 

島津忠久の墓〔鎌倉市〕

 

 

 

27代の藩主・斉興は、妾・お由良を寵愛した。

後継ぎは斉彬に決まっていたが、なかなか位を譲らなかった。

お由良が生んだ3男・久光を後継に変えたいと考え、その機会を待っていた。

 

斉彬を亡き者にする陰謀があるという噂が起きて、高崎五郎たちが怒って行動を起こした。

その仲間に、大久保利通の父・利世も加わっていた。

 

その連中は藩主により逮捕され、処罰された。

この事件は、お由良騒動と呼ばれている。

大久保利世は、沖永良部島に流罪となった。

 

大久保一蔵〔利通の旧名〕は鍛冶屋敷町で、西郷より3年あとに生まれた。

父の利世は禅学を修め、琉球館の付役の職に就いていた。

一蔵は17・8歳の頃は、藩の記録所書き役をつとめていた。

利世の息子の一蔵は、免職となった。

 

 

 

大久保一蔵〔利通〕

 

 

 

彼の家の経済は、悲惨となった。

妹が3人いて食費にこと欠いたという。

西郷家では、せめて一人でもと考え、利通を招いて食事を共にしていたという。

 

28代の藩主・斉彬は、西洋文明への情熱を持つ大名であった。

彼は西洋式の科学技術を導入し、その国産品を作ることを目標とした。

 

鹿児島市の北部海岸に、磯公園がある。

錦江湾の桜島が間近に見える眺めの良い所である。

そこは、島津家の旧別邸であった。

そこに斉彬は日本最初の灯篭のようなガス燈を作った。

 

その隣に、集成館という工場群を建てた。

そこに1851年に反射炉を造り製鉄し大砲をつくった。

その大砲を鹿児島湾のまわりに築いた砲台に、備え付けた。

 

その後、各藩が各地に反射炉を築き、作った鉄で大砲を作り、砲台を備えた。

伊豆の韮山には幕府が作らせた反射炉が現存している。

 

 

 

韮山反射炉〔静岡県伊豆の国市〕

 

 

 

蒸気エンジンの設計図が残っていて、集成館は日本最初の蒸気船〔雲行丸〕を作った造船所もあった。

ガラスに着色する最新式の技術を取り入れ、有名な薩摩キリコを作った。

また、輸入された紡績機械が操業をはじめた。

 

これらの集成館工場は、薩英戦争の艦砲射撃で破壊され、異人館だけが残ったという。

この幕末期の洋館は、西洋から招いたイギリス人紡績技師たちの宿舎であった。

 

この異人館は重要で、そこに住むイギリス人たちから斉彬は、西洋の内閣制や民主的な議会などの政治組織を学んだ。

その導入のためには、まずイギリスにおける議会政治の基礎が築かれた「名誉革命」のような社会構造の変革が必要だ、と考えた。

 

 

 

異人館〔鹿児島市〕

 

 

 

藩主・斉彬は手始めに、身分にかかわりなく優秀な人材を抜擢しよう、と考えた。

そのため藩士に、意見上申の投書を奨励した。

 

西郷吉之助は、以下のような農政の上申書を書いた。

 

享保の改革の時には、一時の年貢増収がはかられた。

増収をもっぱら郷役に任せたゆえ、収穫中の年貢割合が上がった。

御蔵人の取り分が増加し、民心が失われた。

 

その弊害は追々広がっており、暴利役人のために、民苦が続いている。

農政の乱れにより、百姓は村より離散し、他領地へ移り住む者、数千人に及ぶ領地がある。

・・・

 

検地帳に下田と書かれた田は、年貢が割安のため、役人に賄賂を送り、上田を下田扱いに変える百姓もいる。

・・・

農政は他藩の善政を見習い、悪代官の弊害を省くことが必要・・・

 

斉彬は投書類に目を通したが、西郷吉之助に注目した。

彼が菊池氏の子孫で、勤王家系であることを知った。

 

この男は使い者になると考え、斉彬は参勤交代の時、西郷に江戸勤務を命じた。

 

 

 

島津斉彬

 

 

 

鹿児島城下の水上坂の茶屋で、斉彬は西郷と話をした。

隆盛の人柄が気に入った斉彬は、私設秘書とすることを告げ、江戸藩邸の庭方役に任じ、改革派大名との秘密の連絡役を仰せつけた。

 

江戸に着いた西郷は、初めに小石川の水戸藩邸に行かされた。

そこで尊王学者・藤田東湖に会った。

以後、彼の指導を受けることになった。

 

また水戸藩邸で橋本左内と、知り合いになった。

彼は福井藩士であったが、父の藩医の仕事を継いだ。

蘭学を学び、尊王の志士となった。

藩校・明道館の学監となった。

 

 

 

橋本左内

 

 

 

徳川将軍・家定の夫人が亡くなった時、斉彬は島津家の一門・今和泉領主の娘・篤子を斉彬の養子にした。

さらに親戚である公家御三家筆頭・近衛家の養女としたあと、13代将軍家定に輿入れさせた。

 

 

 

天璋院篤姫

 

 

 

その輿入れのとき、持参する調度品の購入などの用事を、西郷が受け持った、という。

このことで西郷は、江戸城内にも顔がきくようになった。

 

斉彬は子と死に別れたあと、後継ぎに久光の子・忠義を指名した。

斉彬が江戸詰めの時は、久光が忠義の後見役として、藩主のように振る舞っていた。

 

 

 

島津忠義

 

 

 

久光公は読書家であり、学者であった。

彼が平田篤胤の『古史伝』を探していると聞き、大久保一蔵は吉祥院という人を通じて贈った。

その本に、一蔵は「近事意見書」を書いて挟んでいた。

 

それを読んだ久光公は、一蔵が役に立つ者だと知り、「静かに待て」という書付けを渡した。

一蔵は西郷に代わって、40余人の勤王の志士を動かしていた。

 

久光公は大久保を重視して、彼らの仲間に「誠忠組」の名を与えた。

後に一蔵は、藩士の役に復帰した。

 

さぼ