出雲王国は、3世紀に亡ぼされた。〔勝友彦著『親魏倭王の都』参照〕
そのとき各地に散った兵士は、「出雲忍者」の秘密結社をつくり、お互いに協力した。
秘密結社であるので、歴史家にも知られていない。
出雲山地には良質の砂鉄があったから、古代から製鉄が行われた。
その技術を持つ者たちが、日本各地に移住し鍛冶屋になった。
役行者は出雲系の加茂氏の出身であった。
彼が修験道をはじめると、山岳仏教の僧侶の一部が山岳で修行する修験者が増えた。
その修験者には多くの出雲忍者が含まれていた。
後者は日本内で戦争があると、陣笠として参加し収入を得るようになった。
彼らは山伏〔山武士〕と呼ばれるようになった。
その服装は羽織袴で、胸に玉飾りのついた帯をたらし、ユダヤ風の黒い小さな冠をつけていた。
山伏
後醍醐天皇が建武の中興を行った後には、足利の軍勢に攻められ、大和の南部に逃れた。
そのとき千早城や赤坂城に立ちこもり、後醍醐天皇を助けた民間の集団があった。
それは、山伏たちであった。
彼らは合戦の跡地に出没して、戦没兵士の鎧兜を拾い、それを自分のものとした。
そして次の参戦のとき着用した。
ちぐはぐな様相をしていたので、悪党とも呼ばれた。
彼らの指揮者が楠木正成であったが、彼らの出身は出雲忍者であった。
楠木正成は菊水の旗印をかかげて、南朝天皇のために幕府軍と戦った。
最後に、湊川の戦いで敗れた。
楠木は湊川に祭られ、天皇家の忠臣として称えられている。
正成の親族に、菊池家があった。
その子孫が鹿児島の西郷家であった。
出雲忍者の組織を上手に使って、大名に成り上がった者がいた。
斎藤道三や小田原の北条早雲や豊臣秀吉がその例であった。
秀吉は忍者出身であったので、サルというあだ名がついた。
木下藤吉郎は、日吉大社の神主家の樹下(じゅげ)家と親しかったので、木下の苗字を使った時期があった。
神仏習合で比叡山は、日枝神社が尊重したサルタヒコ大神を寺の守り神にしたことから、秀吉のあだ名がサルとなった。
出雲忍者たちは、歩く宗教と言われた時宗(じしゅう:浄土宗の一派)に多く入信した。
その宗派の信者の個人名には、「阿弥」がついた。
観阿弥や世阿弥たちは能・狂言を演じ、芸能文化に貢献した。
出雲忍者出身の出雲阿国は、歌舞伎という芸能の基を作った。
丹波国は出雲忍者の集団移住地であった。
丹波国綾部近辺の山家に、出雲忍者親分の広い屋敷があった。
出雲忍者の子供は年頃になると、そこに面向き、忍術を学ぶ習慣があった。
山家城址公園〔京都府綾部市〕
樹木に素早くのぼり隠れたり、屋根上を走り回る練習をした。
また幅のある小川を勢いをつけて跳び越えたり、崖をよじ登ったりした。
出雲忍者の特色は、先祖代々の強い規律と団結心であった。
彼らは鍛冶の技術で、刀や鉄砲作ったから、鍛冶屋衆として戦国武将に重宝された。
紀州にいたその集団は雑賀(さいか)衆と呼ばれ、松江松平藩に招かれ下級武士となった。
鹿児島に住んだ鍛冶屋衆は、島津大名の下級武士となった。
さぼ