島津家の本家は鹿児島の鶴丸城で、薩摩藩全体を支配していた。
島津家のそれぞれの分家が、藩内を分割統治していた。
薩摩半島の領地は、伊作に住む分家の殿様が管理していた。
殿様は各庄屋をまわって、年貢の帳簿を点検した。
後世の人々は、後世の常識で史書の事件を判断する傾向があるらしい。
それで、しばしば誤解された説明を見かけることがある。
それを避けるために、旧出雲王家の直系子孫が明治時代の人から直接聞いた話によると、当時の薩摩半島の農家では、新聞もラジオも使わなかったから、明治時代の常識は江戸時代とほとんど変わっていなかった。
農民は天皇の存在を、知らない人が多かった。
将軍のことを知らない人も多く、世の中で一番偉い人は、薩摩の殿様だと考えていた。
そんな状態の時に、薩摩半島の殿様が昔どおりに、万ノ瀬川流域の村の庄屋に回ってきた。
殿様は、庄屋宅の床ノ間に泊まるのが、常であった。
その晩は例のように、焼酎とご馳走が準備された。
村一番の美しい乙女が呼ばれて、お酌と「おとぎ」をする習わしがあった。
夜には共寝とお伽話が付きものであった。
朝になると殿様は乙女に、根占(ねじめ)つきで島津家の紋章のある財布を、記念品として渡し、馬に乗って帰った。
乙女は殿様に、お伽をしたことを、大層な名誉だと考えた。
そして良い縁談を全て断り、一生独身を続けた。
乙女は子をはらみ、生まれた子を育てた。
その子が5・6歳のとき、連れて殿様に会いに行った。
彼女は貰った記念品を、証拠として殿様に見せた。
すなわち「殿さまの落とし子」の存在は、明治時代まであったことになる。
その男の子は、殿様と顔がよく似ていたので殿様は喜び、彼女に広い田畑を与え、一人で住める家も建て与えた。
男児が成人すると、島津の苗字の代わりに支藩家・伊東姓を与え、個人名を祐光とした。
この青年は、京都の島津製作所の技師になった、という。
伊東祐光から今上天皇までの系譜〔歴史ディレクトリ〕
さぼ