17代薩摩藩主は、島津義弘であった。

彼の時代に、関ヶ原合戦が起きた。

彼は西方として参戦したが、そのうちに西軍の各藩の軍勢は総崩れになった。

 

後ろも東軍に囲まれた薩摩軍は、前方の東軍の真ん中に総突撃した。

源氏の子孫・義弘の心には、源氏の偽系図を作った徳川家に対する鬱憤があった。

 

 

 

敵中突破!関ケ原合戦と島津の退き口〔大垣・西美濃観光ポータル〕

 
 
 

慶長5年(1600)9月15日(新暦10月21日)午後、関ケ原合戦で西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功した。

これが、世に名高い「島津の退き口」である。
この戦いで東軍の激しい追撃を食い止めるため、島津隊の島津豊久や長寿院盛淳らは苛烈な「捨て奸(がまり)〔退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、本隊を逃がす壮絶な戦法。〕」で応戦した。

 
 

関ヶ原の合戦布陣図と島津義弘の敵中突破

 

 

 

義弘は壮絶な戦いののち敵中を突破し、南まわりに和泉国の堺に向った。

義弘は、親しい堺商人の船に乗り海上より帰郷した。

 

徳川家が負けた薩摩藩の領地を削らなかったのは、偽系図の引け目があったからかもしれない。

 

藩主の勇気をたたえた薩摩人は、勝った徳川家を憎み、復讐心を桜島の噴火のように燃やし続けた。

 

鶴丸城下の武士の家では、江戸時代から妙円寺詣りが年中行事になっていた。

妙円寺は鶴丸城下から20km離れた伊集院にあった。

 

 

 

妙円寺を菩提寺とした武将・島津義弘〔徳重神社の祭神〕

 

 

 

その寺には、関ヶ原で戦った島津義弘の墓があった。

関ヶ原合戦で島津軍が敗れた9月14日(旧暦)夜、墓参りのために、鹿児島市の士族は妙円寺に向った。

 

 

 

妙円寺詣りの主会場となる徳重神社

 

 

 

大人は、鎧・兜姿で行列した。

子どもは厚紙で作った鎧を着て、陣笠をかぶり、薩摩藩の「くつわ」の紋の旗印をかかげて進んだ。

 

寺に着くと、墓の前に整列し「チェスト行け、関ヶ原!」と雄叫びを挙げた。

「チェスト行け」とは、鹿児島弁で「頑張れ」の意味であった。

その後で帰途についた。

その行事は、明治維新で戦意を燃やすのに役立った。

妙円寺が廃仏毀釈になった跡地には、徳重神社が建てられ、「徳重社参り」が、その後も続けられている。

 

さぼ