伊豆の伊東氏は、その後も人々に話題を提供した。

伊東祐親(ひろきよ)は頼朝の長男・千鶴丸を隠した後は、当時優勢であった平家のために戦い、敗れて自刃した。

 

祐親の息子・祐清(ひろきよ)も平家に仕え、木曾義仲と戦い討死した。

伊東家の分家に、河津祐泰(ひろやす)がいた。

彼は島津忠久の祖父であるが、領地問題で河津家を憎んでいた工藤祐経(ひろつね)に暗殺された。

 

伊東祐清は河津祐泰の長男・一万と次男・箱王を、養子として育てていた。

 

祐清の死により、一万と箱王は相模に住む曽我祐信の養子となった。

1193年に源頼朝は、富士の裾野で大巻狩を行った。

一万は曽我十郎祐成の名と変わり、箱王は曽我五郎時致(ときむね)となっていた。

 

曽我兄弟は、父の仇討ちをする良い機会だと考え、富士に赴いた。

5月28日の夜、兄弟は工藤祐経の仮屋に討ち入り、父の仇を打った。

 

しかし十郎祐成は、工藤の郎党に切られて討死した。

吾郎時政は捕えられ刑死となった。

武家社会の人々は、若い兄弟の仇討ちをたたえた。

 

伊東祐清には、実子・祐光(ひろみつ)がいた。

祐清が戦死したあと15歳になった祐光に、頼朝は河津の庄を与えた。

それで伊東本家は代々存続し、のちには備中藩主の家柄となった。

 

 

 

曽我兄弟の仇討ち

 

 

 

島津家では始祖千鶴丸の名にちなみ、本城を鶴丸城と名付けた。

その鹿児島市の鶴丸城下では「曽我どんの笠焼き」の行事が続いている。

曽我どんと言うのは「曽我兄弟の仇討ち」のことである。

この行事は薩摩藩の武士に、徳川家に仇討ちする気風を持たせるために、藩主が行わせた行事であった。

 

徳川氏は源氏が武士社会で人気があるので、源氏の子孫であるとの偽の家系図を作って宣伝した。

源氏の本家・島津大名はそのことで、古くから徳川家を嫌っていた。

それが「曽我物語」を普及させた理由であった。

 

鹿児島市で曽我兄弟の人気が高いのは、島津氏の祖が伊東家で生まれ、曽我兄弟が島津家の親族であることに関係があった。

 

5月28日の夕方に、広い川原に男の子が集まり、古い陣笠や唐傘を燃やした。

その火の回りを木刀や竹の棒を振りかざして走りまわった。

子供らは、曽我兄弟の仇討ちを称える言葉を口々に叫ぶ。

「チェスト行け、曽我兄弟。十郎どん、五郎どん、気張れ!」と。

 

さぼ