伊東まで著『八重姫 千鶴丸考』が、1971年に発行された。
それには島津藩主の家が、源頼朝の子孫であることが詳しく書かれている。
八重姫(北条義時の初恋の人にして源頼朝の最初の妻)〔鎌倉殿の13人〕
源頼朝は平治の乱で敗れ、その子・頼朝は平家により流罪となった。
伊東氏と北条氏が、頼朝の監視役となった。
14歳の頼朝は、伊豆の伊東氏の館に監禁された。
斎木雲州著『明治維新と西郷隆盛〜伝承の日本史』によると、伊東裕親(ひろちか)〔祐親(すけちか)?〕が大番役で京都にいるときは、北条氏の館に移されて監視されることになっていた。
26歳になった頼朝は伊東祐親の三女・八重姫と恋仲になり、1177年に男子を一人もうけて千鶴御前〔千鶴丸〕と名付けた。祐親は大番役を終えて、京からの帰途についた。
そのころ京都では反平家の者が、平家により厳しく罰せられていた。
伊東氏は伊豆半島の東部に、勢力を持っていた。
それで伊豆の伊の字と東部の字を並べて、伊東氏を名乗っていた。
千鶴丸が3歳になったとき、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れた。
それが西隣の北条氏に知れ京都に報告されたら、伊東家は処罰される危険があった。
彼はすぐに家来の斎藤五郎と六郎をこっそり呼び、3歳の千鶴丸を遠方に隠すことを命じた。
そして家族には、千鶴丸を轟(とどろき)ケ渕に沈めたと話した。
頼朝は、北条家に引っ越していた。
千鶴丸が死んだと信じた母の八重姫は、悲しんで真珠ケ渕に入水した。
斎藤兄弟は3歳の千鶴丸を背負って、甲斐源氏の辺見家の館に逃れた。
千鶴丸は、辺見時義(ときよし)と名が変えられた。
一方、頼朝の乳母・比企の尼は関東に下り、武蔵国の郡司・比企掃部丞(ひきかもんのじょう)に嫁いだ。
そこで生まれた長女は、京の二条院に仕えて丹後の局と呼ばれた。
彼女は、辺見時義〔伊東千鶴丸〕の養育を頼まれた。
彼女は後に関東に帰って、安達盛長の妻になった。
そのとき京で「惟宗(これむね)氏との間に生まれた子」と称し、時義の名を「惟宗忠久」と変え、連れ子とした。
伝島津忠久画像
この惟宗家は近衛家の家司(けいし)であり、この頃から千鶴丸は近衛家と関係ができて、島津忠久になった後も、島津家と近衛家は深い交際が続いた。
島津家は、近衛家から嫁を迎えたという。
だから島津家は近衛家の血筋である、とも言える。
幕末に島津家の篤姫は、近衛家の養女になり、13代将軍の御台所となった。
源頼朝はその後、平家を討ち天下を取った。
しかし家臣の北条家が源氏以上に強くなろうと狙っていたから、頼朝の妻・北条政子は頼朝が他の女に子を生ませることを許さなかった。
それで惟宗忠久が、伊東の娘・八重姫が生んだ頼朝の長男であることを、丹後の局は隠し続けた。
丹後の局の娘が頼朝の弟・範頼(のりより)と結婚したこともあり、忠久〔伊東千鶴丸〕のことが密かに頼朝の耳に届いた。
頼朝は長男の生存を知って喜び、元服もしていない9歳の惟宗忠久を、1186年に九州南部の島津庄の地頭職に補任(ぶにん)した。
19歳のとき、島津忠久は薩摩・大隈両国の奉行人〔守護〕に任じられた。
1197年には、忠久には日向国内の領地も与えられた。
そこは彼の母の家である伊東氏が、支藩主に任じられ島津氏を守る形になった。
1199年に頼朝は、落馬の打撲が基とされる死を招いた。
後で執権政治を行い、権力を取った北条氏は、頼朝の子孫は絶えた、と確かめずに本に書いた。
そして頼朝の墓も無くした。
つまり、建久6年〔1196〕から頼朝が亡くなった正治元年〔1199〕までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている〔仏事の記録はあり〕。
日本では、新しい権力者が強力になると、以前の権力者の墓や構築物を壊すのが常であった。
以前の権力者の権威が残ると、新権力者の支配がやりにくいからであった。
後世に島津忠久の子孫・薩摩藩主重豪(しげひで)が、鎌倉に頼朝の墓を建てた。
それは五重の石塔の形である。
源頼朝の墓〔鎌倉市西御門〕
歴史は2種類ある。
1つは、勝ち残った有力者が自分の都合の良い話に変えて伝えるものである。
もう1つは実の子孫か真の学者が、正確に伝承したものである。
隠す事情がある時代が過ぎると、学者は書き換えなくてはならない。
しかし、日本には、正しく書き換えていない史書が多いらしい。
さぼ