フランス大革命が勃発しイギリスに産業革命が起きた18世紀に、水戸家の家臣・藤田幽谷は水戸光圀の志を見抜き、尊王思想を唱えた。

その子・藤田東湖〔徳川斉昭の腹心〕や会沢正志斎たちが、尊王思想を広めた。

 

 

 

藤田東湖

 

 

 

水戸藩は幕府御三家の家柄であるのに、本家に反抗する風潮があるのは、不思議なことと思われていた。

 

1830年代に日本近海にイギリス船やロシア船が出没するようになると、1834年に東湖は藩主・斉昭に尊王攘夷の書を提出した。

1838年に水戸藩9代藩主・徳川斉昭〔徳川慶喜の実父〕は、水戸藩で大砲を鋳造し、外国船の接近に備えた。

 

 

 

徳川斉昭

 

 

 

また彼は内憂外患についての意見書を幕府に提出した。

江戸幕府は彼の意見を尊重することなく、反対に1844年に斉昭に謹慎を命じた。

この謹慎は、半年後になって解かれた。

 

1846年に天皇が幕府に、海防を厳重にするよう勅書を送った。

その結果、幕府は水戸藩士・藤田東湖らに、蟄居を命じることになった。

 

島津斉彬は、徳川封建制を変えるためには、水戸藩の唱える尊王思想を利用しなければ成功しない、と考えた。

 

そのためには、下級武士を使う必要があると考え、西郷吉之助〔隆盛の幕末までの名前〕を秘書役に採用した。

そして江戸の水戸藩邸で藤田東湖に学ばせた。

 

 

 

絵本西郷一代記〔早川徳之助 編輯〕

 

 

 

また討幕のためには、水戸藩出身の一橋慶喜を将軍にするのが有効だ、と考えた。

斉彬は先見の明があった、と言うべきだ。

 

幕末の水戸藩では、天狗党〔勤王派〕と諸生党〔佐幕派〕の争いが激しく続けられた。

幕末には、勤王派の水戸脱藩浪士が、幕府の重臣を襲う事件〔桜田門外の変〕を起こした。

 

さぼ