1687年に、将軍・綱吉が「生類憐れみの令」を出した。
彼は子に恵まれなかった。
あらゆる生物の殺生をやめると、仏の慈悲で子が授かると信じた。
そのための生類憐れみの令であった。
伝徳川綱吉像〔徳川美術館〕
その法令のために、犬や猫を殺した人が処罰された。
綱吉はその処罰を、頻発するようになった。
老中・土屋政直は水戸藩主・徳川光圀を致仕させて礼の廃止を期待した。
光圀〔水戸黄門〕が家来をつれて諸国漫遊し、悪代官を懲らしめる話があるが、将軍の強い権力の前には、徳川御三家も実際は歯が立たなかった。
1695年には、飢饉で餓死者が出ているのに、綱吉は江戸の中野に広い犬小屋を設置した。
特に犬の生命を尊重したので、犬公方のあだ名がついた。
光圀は江戸の「彰考館(しょうこうかん)」で、学者に大日本史の編集をさせた。
彼は日本国の長い期間に支配者が天皇であったことを知らしめ、王政復古を望み、忠臣を顕彰しようと考えたらしい。
徳川光圀
編集場所の名は「往(過去)を考え彰(あきら)かにして、来(将来)を考える」の言葉を意味している。
光圀は湊川(神戸市)に、楠木正成の墓を建てた。
1692年には楠公建碑に「嗚呼忠臣楠子」の言葉を刻ませた。
さぼ