維新政府はみずからの正当性として「王政復古」論を主張し、『大政紀要』(宮内省系)や『復古記』(太政官系)という形で公表した。

 

これに対して、戊辰戦争のさなかの1868年8月に出された小洲処士の《復古論》は、維新の変革は草莽(そうもう:民間)から起ったとする「草莽復古」を論じた。

 

森有礼が結成した明六社〔明治初期の啓蒙思想団体〕では、福沢諭吉や西周ら明治啓蒙思想家が、維新の開明性・進歩性を強調した。

福沢諭吉は『文明論之概略』(明治8年、1875年)において、幕末から明治の改革を「王政一新」と呼び、尊王や攘夷が幕藩体制を倒したという俗論を批判し、江戸幕府下における「門閥」を基盤とした「専制の暴政」に対する人々の不満が内実にあったからこそ、単に政権が交替するだけではなく、武士身分の解体としての廃藩置県まで到達したとして、人々の智徳〔知識と道徳〕の進歩によって歴史が動いたと評した。

 


 

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士

 

 

 

徳富蘇峰の民友社では、竹越与三郎が『新日本史』を刊行し、明治維新の原因を勤王論による政治運動と説く歴史観や、外国の圧力を維新の原因とみる歴史観を批判し、徳川時代に芽生えていた社会全体の潮流、社会的革命があったからこそ、「代朝革命」が起こったと論じた。

竹越は、明治維新をイギリスのような「復古的革命」、フランスやアメリカのような「理想的革命」とも異なる「乱世的革命(アナルキカル・レボリューション)」と位置づけながら、新政府について「維新の大目的を失忘して、邪径に走らんとす」と批判した。

 

徳富蘇峰も自ら『吉田松陰』(1893年)を、さらに『近世日本国民史』で明治維新を論じた。

 

 

 

徳富蘇峰

 

 

 

北一輝は「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。

すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。

 

国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した

 

日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北一輝は、明治39年(1906年)の『国体論及び純正社会主義界主義』で、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命の民主主義」は「無計画の暴発」であり、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみ」と批判した。

つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったと論じた。

 

また、北は竹越與三郎から影響を受けており、特に竹越の『二千五百年史』(1896)における大化の改新を範型とした維新観に深い影響を受けた。

 

 

 

北一輝

 

 

 

竹越は、大化の改新を「空前絶後の国体変革」として、それ以前の社会は天皇の一族が、中臣氏、忌部氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏などの諸族を統治する族長であり、直接民を統治していたわけではなく、「国家」や「国民」はなく、「天皇は国家の君主にあらずして、諸族の長たるに過ぎず」という状態であった。

 

大化の改新によって、貴族豪族の私民私領が廃され、奴隷、公民、土地すべてが国家に属すると定められ、族長の集議所は政府となり、族長政体は官制組織となり、天皇は人民を統治する君主となったとし、「神武以来一千三百年、日本の国民初めて成り、王制初めて生じ、国家初めて現出したるなり」と論じた。

 

北は「維新革命は大化の王制に復古したるものにあらず。大化の革命に於て理想たりし儒教の公民国家が一千三百年の長き進化の後に於て漸くに実現せられたるものなり」と評した。

しかし、天智天皇の死とともに公民国家の理想は去り、家長国となったと批判した。

北は君主主権でなく、国家主権の国家を理想とした。

 

北はその後、中国の辛亥革命に身を投じ、『日本改造法案大綱』〔1923年〕を書いて昭和維新に大きな影響を与えた。

 

ジャーナリストの石橋湛山は、明治時代を帝国主義的発展の時代と見られがちだが、日清日露等の戦争はやむを得ず行ったもので、明治の最大の事業は戦争でも植民地の発展でもなく、政治、法律、社会の制度と思想においてデモクラティック〔民主主義的〕の改革を行なったことにあると論じた。

 

 

 

石橋湛山

 

 


明治維新で、日本が封建社会から市民社会に変わった。

その変化は予定通りではなかった。

 

徳川家の分家である水戸徳川家は、本家の繁栄が妬ましく尊王思想をとなえた。

それと反徳川家の感情を持つ、薩摩藩主と長州藩主が結びついた。

それが明治維新の原動力であった。

 

しかし、途中で様々な変化があった。

 

歴史小説では、江戸の無血開城を山場とし、西郷と海舟の会談を両雄の快挙と描く。

しかし西郷は「江戸の会談は、お芝居でごわした」と語っている。

 

「無血開城」は海舟と西郷の間で、以前から話がついていた、という。

 

 

 

勝海舟と西郷隆盛の会談

 

 

 

「明治維新」という言葉は、曖昧である。

この変化は、封建社会を市民社会に変えた大改革であったので「明治革新」という言葉がはっきりする。

 

それはともかく大切なことは、なぜ「維新が成功したか」である。

 

下級武士が大名にかわり、権力を奪うということは、なかなか出来ることではない。

大名や公家勢力は、徳川家と朝廷で政権を取り合い終わりにしようとした。

 

長州の木戸孝充は、市民社会を目的にしていなかった。

また坂本龍馬は大政奉還の後に、大名の連合政府を作ろうと動いたこともあった。

 

このような中途半端な変化でなく、四民平等な社会作りに引っ張ったのは薩摩藩の西郷と大久保であった。

それには理由があった。

 

史書を見分けるのは難しい。

なぜならば、最初に書かれた本は偽書が多いからだ。

勝ち残った権力者は、敗者を悪く書くのが常である。

 

 

 

大久保利通

 

 

 

ところが日本人は性善説である。

権力者が書いた本は権威があると、錯覚している人が多い。

多く売れる本が、正史だと思っている。

 

政治は多数決が正しい。

しかし日本の史書では、多数決は怪しい。

 

旧出雲王国直系子孫の斎木雲州著『明治維新と西郷隆盛・・伝承の日本史・・』によると、西郷の本を調べてみたら、古い歴史小説家の書いたものには偽書が多かった。

 

偽書というのは、内容の半数近くが史実でないものと、歴史の重要な視点が誤っているものを言う。

小説家は、真偽をちゃんと確かめずに書くからである。

 

シナの町を歩くと、肉屋の店頭にブタの死体がぶら下がっている。

それはグロテスクである。

しかし、そうしないとシナでは肉は売れない。

「羊頭を掲げ、狗肉〔犬の肉〕を売る」の諺がある。

羊頭を掲げても、掲げたものから切って売らなければ、シナ人は買わない。

 

そのようにシナ人は、性悪説である。

その代わり、シナの史書の多くは信用がある。

権力者が死んだ後に、学者が書くからである。

それが「正書」である。

日本の史書には、正書が少ない。

 

明治維新については、大久保政府が学者を集めて書き方を指導した。

出版条例などを作って、真相を書かせなかった。

その指導のままの怪しい歴史を、今だに書いている本がある。

 

福沢諭吉は大久保が没するのを待って『丁丑(ていちゅう)公論』を書いた。

本書の特徴は、西南戦争直後の西郷に対する批判に反論して、西郷を弁護しているところにある。

 

 

 

福沢諭吉

 

 

 

緒言において、政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説く。

さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩考えとは少しく趣をにするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」。

つまり「西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、私とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはない」と述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞揚する。

 

また、政府が西郷の官位を剥奪した途端、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論する。

 

そして、本文において「そもそも西郷は生涯に政府の転覆をてたること二度にして、初にはりて後にはしたる者なり」。

すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であって忠臣として賞賛し、同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであるとする。

 

 

 

征韓論議図

 

 

 

さらに、西郷が征韓論を主張して受け入れられなかった時に兵卒数百名を引き連れて鹿児島に帰った後にも、政府は西郷や将校、兵卒に俸給を払い続け、加えて武器製造所をも鹿児島に作ったことが、間接的に西南戦争の原因になったとして、政府を批判している。

 

最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」。

すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみ、いつかこの人物を起用する時もあったはずであると結んでいる。

 

さぼ