伊勢外宮が建立された478年は、雄略大君が海外進出を再開した年にあたり、大君にとっても多忙な時期であったと考えられる。
『古事記』によれば、伊勢外宮を建ててから10年後の489年に雄略大君は亡くなった。
天皇御年 壹佰貳拾肆歲 己巳年八月九日崩也。
御陵在河內之多治比高鸇也。
天皇の年齢は百二十四歳 己巳の年〔489年〕の八月九日に崩御した。
御陵は河内国の丹治比の高鷲にある。
雄略大君の墓は、丹比高鷲原(たじひのたかわしのはら)陵〔大阪府羽曳野市〕と言われている。
丹比高鷲原陵〔大阪府羽曳野市〕
現在は前方後円墳の前方部に拝所があるが、これは文久の修復でつくり直された形であり、古い山陵図を見ると元の形は円墳であることがわかる。
雄略帝 丹比高鷲原陵〔成功〕文久山陵図
その墓の直径は、「山陵図」図版解説には、次のように書かれている。
本墳は、丸山とよばれるように径75mを測る円墳で、きわめて規模は大きい。
しかし、中央集権を強力に押し進め広域を支配した大君にしては、周囲の大型の古墳に比べてむしろ小さい。
国内統治の手法でも明らかなように、雄略大君は先進的な考え方の持ち主なので、中国ではすでに大型の古墳が造られなくなっていた事情を理解していた。
それで、自分自身のために大型の古墳を造るよりも、伊勢外宮の建立の方に費用と労力をかけるべきだと判断したらしい。
ところが後世の和国では、月神は革命の神として敬遠された。
第二次物部東征が宇佐の月神を旗印として、磯城王朝を滅ぼした。
また息長家は、御陰(みかげ)ノ神〔宇佐の月神〕を祀る家であったので、息長姫〔神功〕皇后が、月神を旗印にして物部王朝を乗っ取った。
それでヤマトの王朝では、月神を毛嫌いする風潮ができた。
神功皇后の肖像が描かれた政府紙幣〔一円券〕1878年
豊受大神には、海部家の稲の神・宇賀魂が含まれていた。
それで、伊勢外宮の神は、内宮の神に食事を捧げる神だと言われるようになった。
月読ノ神の社は、分けて別に建てられた。
しかし外宮の神は、月神だと考える人も多く、様々な書物に月神として拝まれた記録が残されている。
1610年〔慶長15年〕の『太笑記』に、三浦為春は次のように書いている。
さやかなる 鷲の高嶺の 雲居より
影やはらぐる 月よみの森と
〔伊勢の〕外宮月神の事を、いにしへの西行のよみ給ふ・・・
つまりこの歌により、平安〜鎌倉時代の僧・西行は、伊勢外宮は月神を祀ると考えていたことがわかる。
西行像(MOA美術館蔵)
このような経緯により、記紀は月神を隠す方針でつくられた。
そのため、雄略大君が伊勢外宮を建立した史実も隠されてしまった。
しかし彼の偉業は、後世の人々から高い評価を受けていた形跡がある。
例えば、奈良時代の『万葉集』巻一の巻頭に雄略大君の長歌があるのは、当時の人々に特別な大君として意識されていた証拠である。
また、雄略天皇紀の特徴として不思議な話の収録が挙げられる。
平安時代の『日本霊異記(りょういき)』は、雄略大君の話から始まる。
あるとき天皇は、少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)という人物に、三輪山の神を捕えるよう命じます。
蜾蠃が捕まえてきた神を天皇に見せると、箱の中で蛇が雷のような音を立てて目を光らせたため、天皇は慌てて逃げ、丘に放すよう命じました。
そしてその丘を雷(いかずち)と名付けたといいます。
そこには蜾蠃死後の後日談も記されている。
栖軽(すがる)の墓に立てた柱の裂け目に雷がはさまり捕えられていたため、天皇がその地を「雷の丘」と名付けたといわれます。
雷丘〔奈良県高市郡明日香村〕
雄略大君は、国内の広域統治や中央集権体制の確立、秀逸な文書による宋との外交、そして伊勢外宮の建立と、日本の古代史において前例のない優れた業績を残した、偉大な大君の一人であったと言える。
さぼ