3世紀のヤマトでは、磯城王朝9代の開化〔オオヒビ〕大君の後、ヒコイマス〔彦坐〕王が10代大君になった。

しかし、大君を名乗ってはいたが、いわばヤマトの一地方の王に過ぎなかった。

三輪山の麓には、別に三輪王朝が並立していた。

 

ヒコイマス大君が没した後、王子の一人の彦多都御子(ひこたつのみこ)は、丹波国南端の亀山〔現在の亀岡〕に本拠地を移した。

それで、彼は丹波道主御子(たんばみちぬしのみこ)〔または彦道主御子〕と呼ばれた。

 

 

 

磯城王朝と三輪王朝の並立

 

 

 

磯城王朝の大多数の重臣が彼について行ったので、その王朝は亀山に遷都したというべき状態だった。

だから道主御子は磯城王朝11代大君になった、と考えるのが妥当であった。

 

しかし、物部2次東征の際に物部勢と豊国勢にせめられて、道主大君は降伏し磯城王朝は終わりを迎えた。

 

 

 

丹波道主命

 

 

 

道主大君の亀山遷都と降伏の史実は記紀では隠され、丹波道主命が「四道将軍」の一人として丹波に派遣された話に変えられた。

しかし、亀山は出雲族ゆかりの地であったので、出雲系の道主大君が征服する必要はなかった。

このように、記紀の話は作為に満ちている。

 

出雲の人々がヤマトへよく行くようになり、途中で宿泊するのが亀山の地であった。

それで出雲の人々が多く住むようになり、やがて出雲族の幸神(さいのかみ)信仰のクナトノ大神を祀る神社がつくられた。

それが丹波国一之宮・出雲大神宮〔京都府亀岡市千歳町出雲〕であった。

現在の祭神は大国主神と三穂津姫尊となっている。

 

 

 

丹波国一之宮・出雲大神宮〔京都府亀岡市千歳町出雲〕

 

 

 

そこでは、太古より神社の背後にそびえる円錐形の御蔭山(みかげやま)そのものが、出雲の大神の神体山として崇められていた。

 

 

 

身体とする御蔭山

 

 

 

またサイノカミの岩神信仰も盛んに行われたらしく、境内には今でも数多くの磐座が鎮座する。

 

 

 

磐座 本殿後方に鎮座〔出雲大神宮〕

 

 

 

その社は、最初は出雲の古い形の神社であったが、のちに推古女帝の時に大きくなった。

推古女帝は、出雲系の御方であった。

その甥、上宮太子(かみつみやたいし)〔聖徳太子の名前を使うのは誤り〕の息子2人〔財王、日置王〕も、東出雲王・富家と繋がりが深かったので、出雲に移動し日御碕(ひのみさき)神社〔島根県出雲市〕を造ったりした。

 

出雲では朝日を崇拝する習慣があったが、推古女帝の時代に仏教の西方浄土の影響を受けて、夕日を拝む信仰ができた。

その影響で四天王寺〔大阪市天王寺区〕には、西方に鳥居がつくられた。

出雲の日御碕神社も、海に沈む夕日を信仰する社としてつくられた。

 

 

 

日御碕神社〔島根県出雲市〕

 

 

 

推古女帝の古墳〔大阪府南河内郡太子町〕は、出雲の古墳そっくりの四角い形であった。

推古天皇は仲の良い富家に年貢を送り、富家の古墳もつくった。

その時に、越(こし)の国の蘇我家の働き手を遣わした。

 

同じように、推古女帝の指示により、出雲大神宮も大きな社殿につくり変えられた。

現在、神社では「元明天皇和銅〔709〕年に、初めて社殿を造営した」と説明しているが誤りだと考えられる。

 

出雲の杵築大社が出雲大社と呼ばれるようになったのは、明治時代からなので、先に「出雲」を名乗った出雲大神宮は「元出雲」と呼ばれている。

 

 

 

大王と豪族の系図〔6〜7世紀〕

 

 

 

道主王は敗戦を認めた後、亀山の地に祖父・開化〔オオヒビ〕大君を祀った。

その社は、小幡神社〔京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内〕となった。

現在その社には、道主王の父君・ヒコイマス大君も祀られている。

 

 

 

小幡神社から望む高熊山

 

 

 

大君の座を下りた道主王は、丹波西北海岸の網野に去った。

彼は網野神社〔京都府京丹後市網野町〕を建てて、そこに父君・ヒコイマス大君を祀った。

 

彼はその後因幡国造に任命されると、若い頃の彦多津彦(ひこたつひこ)を名乗り、因幡国に移住した。

『旧事本紀』「国造本紀」の因幡国造の項には、以下のように書かれている。

 

稲葉国造

志賀高穴穂朝御世 彦坐王児彦多都彦命 定賜国造。

 

因幡国造

成務朝の御世に、ヒコイマス王の子・彦多都彦命を国造に定めた。

 

道主王の御子の中には、磯城王朝の直系であることを誇りとして朝廷別(みかどわけ)王を名乗り、三河の豪族になった人がいた。

 

道主王の子孫の一人は、丹後半島東岸の宇良(うら)神社〔京都府与謝郡伊根町〕の神主になったと言われる。

この子孫は、日下部首の姓を名乗った時期もあった。

 

 

 

宇良神社〔京都府与謝郡伊根町〕

 

 

 

この神社ではもともと出雲族のサイノカミ信仰が行われてた。

それで椿大神社(つばきおおかみやしろ)とも付き合いが深かった。

 

雄略大君の時代に、海部家は宇良神社と椿大神社の仲の良さに目をつけた。

椿大神社が、豊の月神ゆかりの社であったことも、目をつけた重要な理由の一つだった。

それで、豊受大神を伊勢に祀るために、宇良神社の神主・浦島子(うらしまこ)に協力してもらおうと考えた。

 

海部家は浦島子に対し、「豊受大神を宇良神社で祀ってもらいたい。その後で、大神を伊勢に遷座し、伊勢で祀ってもらいたい」と、話を持ちかけた。

海部家の人々は、自らは伊勢に長期滞在する気は無かったらしく、代理の者を伊勢に派遣したかったようだ。

その犠牲者となったのが浦島子だった。

 

浦島子は、出雲系の磯城王朝出身だったので、渡来系の海部家にあまり好意を持っていなかった。

しかし、丹波国造家の要望を無下に断る訳にもいかず、仕方なく受けることになった。

 

こうして、豊受大神は宇良神社に祀られることになった。

 

浦島子は海部家の望みを叶えるよう、豊受大神の伊勢遷座に向けて、椿大神社に協力をお願いした。

 

豊受大神の伊勢遷座が雄略大君に提案されたのは、この頃だったと考えられる。

 

 

 

椿大神社 本殿〔三重県鈴鹿市〕

 

 

 

もともと仁徳王朝では、伊勢内宮の日神を信仰していた。

記紀によれば、「石凝姥(いしこりどめ)命によってまず日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡がつくられ、それぞれ紀国の日前(ひのくま)神、國懸(くにかかす)神として祀られた。その後、八咫鏡(やたのかがみ)がつくられ、伊勢内宮に奉祀された」と書かれている。

つまり伊勢内宮の八咫鏡は、紀国造出身の仁徳王朝により奉納されたものと考えられる。

 

空には太陽と月が照っているので、日本人は太陽と月が並ぶのを好む性質がある。

さらに、仁徳王朝では応神王朝の月神信仰が取り入れられていた。

そのため、雄略大君も日神と同様に月神を信仰していた。

 

雄略大君は、伊勢に日神・天照大神が祀られているのであれば、同じ場所に月神・豊受大神も祀られるべきだ、と考えたらしい。

その結果、大君より豊受大神の伊勢遷座の命令が発せられた。

 

さぼ