3世紀に豊国の月神を旗印に第二次物部東征が行われ、豊国勢は物部軍に合流して、ヤマトに進軍した。〔勝友彦『親魏和王の都』参照〕

 

物部ミマキ王と豊玉姫〔中国の史書に登場する邪馬台国の卑弥呼の一人〕の子供の豊来入彦と豊来入姫が、豊国勢の中心人物であった。

「豊来入」という名前は、「豊国からヤマトへ入ってきた」ことを意味する。

しかし、記紀では物部東征を隠すため、それぞれ「豊鍬入彦」、「豊鍬入姫」と名前が変えられた。

 

豊国勢はヤマトでの物部勢との覇権争いに敗れ、豊来入姫は海部家をたよってヤマトから丹波国に移住した。

それで海部家の真名井神社では、月神も祀られるようになった。

この出来事は、『日本書紀』の垂仁大君の記事に、「天照大神を豊鍬入姫からお離しになった」と書かれた。

これは、豊来入姫が月神を祀っていたことを隠している。

 

三月丁亥朔丙申 離天照大神於豐耜入姬命 託于倭姬命。

 

三月十日、天照大神豊耜入姫(とよすきいりびめ)命から離して、倭姫(やまとひめ)命に託された。

 

 

 

檜原神社〔奈良県桜井市三輪〕

 

 

 

大神神社〔奈良県桜井市三輪〕境内にある檜原神社の由緒書きによると、豊来入姫は天照大神の遷座には関わったと書かれているが、豊来入姫が倭笠縫邑で月神を祀っていたことには触れていない。

 

この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。

大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。

境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。

 

 

 

 

 

 

『丹後国風土記』(逸文)には、天の羽衣の話がある。

 

丹後国に、比治の里〔京丹後市峰山町〕があった。

比治山〔鱒留(ますどめ)の菱山〕の頂に、むかし真奈井という泉があった。

そこは今は沼となっている。

 

その沼へ、天女が八人降りてきて、水浴をした。

和奈佐(わなさ)に住む老夫婦が通りかかって、沼辺に脱ぎ置かれた「天の羽衣」を見つけた。

 

老夫婦は一人分の羽衣を、こっそり取って隠した。

やがて羽衣を着た天女七人は空に飛び上がり、天に帰った。

 

衣のない一人の天女は、帰れずに残った。

恥ずかしくて、水に裸身を隠していた。

 

老夫婦が近づき、言った。

「われらには、子が出来なかった。あなたは、われらの娘になってはくれまいか」

 

天女は答えた。

「衣を返してください。返してくれれば娘になります。」

 

「それは出来ないよ。返したら、天に逃げ帰るだろうから」

 

「いいえ、天女は約束を違えることはありません。偽りを言うのは、人間だけのする事です。」

 

それを聞いて、姥は安心して衣を天女に着せ、天女の娘を家に連れて帰った。

 

天女は、酒を造るのが上手だった。

しかもその酒は、飲むと万病に効く不思議なものだった。

そのため酒は飛ぶように売れて、代金の宝が車に積むほど返ってきた。

 

十年以上が過ぎると、家は豊かになり、土地も肥えて豊かになった。

それでそこを土形(ひじかた)の里と呼んだ。

それが、後に比治の里に変わった。

老夫婦は、天女に言った。

 

「しばらくあなたに家を貸したが、あなたはわれらの実の子ではない。家から出て行ってくれ。」

 

それを聞いて、天女は空を仰いで嘆き、地にひれ伏して泣いて、自分の意志でここに来たのではないと言った。

それを見て老夫婦は怒って、さらに早く去ることを求めた。

 

天女は家を出ると、別の村に行き、村人に言った。

 

「わたしは永く人の世にいたので、天に帰る方法を忘れてしまいました。どうしたら良いのでしょうか。この世の父母の心を思うと、わたしの心は荒潮の波のように乱れます。」

 

この言葉から、そこは「荒塩の村」と呼ばれるようになった。

 

天女は竹野(たかの)ノ郡(こおり)船木の里の奈具の村に来て、村人に言った。

 

「わたしの心が、ここでナグように(心が穏やかに)なりました。」

 

そして、この村に留まった。

そこが竹野ノ郡の奈具の社で、その社に坐す天女は「豊宇賀(とようか)ノ女(め)ノ命」と呼ばれるようになった。

 

京都府宮津市に、籠(この)神社がある。

その奥に旧宮の真名井神社が鎮座する。

そこの社家・海部家では、祭神・豊受大神が天から降臨した、という話が伝えられる。

 

 

 

真名井神社〔籠神社奥宮:京都府宮津市〕

 

 

 

豊受大神と奈具社〔京都府宮津市〕に坐す豊宇賀ノ女ノ命は、同神異名であると言われる。

両神名には「豊」の字があるので、「豊の月神」を含んでいた。

 

比治山の真名井と、宮津市の真名井神社も同じ発音であり関連がある。

 

つまり天の羽衣の天女とは、丹波国に来た豊来入姫のことを示していた。

豊の月神は比治山の真奈井に祀られたが、後に宮津市の真名井神社に遷座された。

 

 

 

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)〔京都府京丹後市〕

 

 

 

この史実は、『海部氏勘注系図』には、次のように書かれた。

 

壬戊年〔242年〕春三月、豊来入姫命は大和国笠縫里より、丹波国与謝郡久志比(くしひ)の真名井原匏宮(よさのみや)〔真名井神社〕に、天照大神と豊受大神を移し、同殿に奉り奉仕した。

 

実際には、豊来入姫が祀ったのは豊受大神のみで、天照大神は後の時期に祀られた。

真名井神社〔籠神社奥宮〕は、伊勢内宮の神・天照大神と伊勢外宮の神・豊受大神が祀られたので、「元伊勢」と称している。

 

 

 

丹波国

 

 

 

豊来入姫は、さらに伊勢国の椿大神社(つばきおおかみやしろ)〔三重県鈴鹿市山本〕に招かれて、その地に移住した。

椿大神社では、もともと出雲国から移されたサルタ彦が祀られていた。

サルタ彦は、もとはインドの象神・ガネーシャだったが、日本に来てからは鼻の長い天狗のような姿になった。

 

宇佐から来た豊来入姫は、「ウサ女(め)ノ命」と呼ばれ、椿大神社の奥の椿岸(つばきぎし)神社に住んだ。

後にその発音が目立たないように「ウズメノ命」に変化し、椿岸神社に祀られた。

そこは、鈿女(うずめ)本宮とも呼ばれる。

 

ウズメノ命はサルタ彦の后神とされ、この話が記紀でサルタ彦とウズメノ命の神話になった。

椿大神社の社家は宇治土公(うじとこ)氏であったが、サルタ彦とウズメノ命を祀ったので、両者の名を組み合わせて「サルメ(猿女)の君」とも呼ばれた。

 

 

 

椿岸神社〔三重県鈴鹿市山本〕

 

 

 

出雲の旧家の伝承によれば、その後豊来入姫は、垂仁大君の送った刺客により椿岸神社で暗殺されたという。

すると月神の信者たちが集まり、彼女をヤマトの豊家(ほけ)ノ山古墳〔奈良県桜井市〕に葬ったと伝わる。

豊家ノ山古墳は、地元でも豊来入姫の御陵として伝承されている。

 

豊来入姫は豊国の宇佐家出身なので、その古墳には「豊国ノ家」という意味の「豊家」という名前がつけられた。

大神神社〔奈良県桜井市〕では、宝物の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が出土した場所は「大和国旧織田藩領箸中村、豊家の山古塚」だと説明されている。

この説明文により、江戸時代以前まではその古墳に「豊家」の字が使われていたことがわかる。

 

豊家ノ山古墳には、板材でつくった墓室・木郭を積石で囲んだ埋葬施設があり、2世紀末〜3世紀初頭につくられた阿波の萩原2号墳〔徳島県鳴門市大麻町〕の影響を受けていた。

阿波は忌部(いんべ)氏の地盤であったので、豊家ノ山古墳の築造には忌部氏が協力した可能性がある。

 

さぼ