雄略大君は、葛城地方を完全に掌握するため、その地方の出雲族を支配下に治めようとしたらしい。

 

葛城山〔現金剛山〕には、雄略大君が狩をしたという跡〔葛木神社の摂社矢刺神社〕がある。

 

『日本書紀』にも、雄略大君の葛城山での狩の記事がある。

 

四年春二月 天皇射獵於葛城山。

四年春二月、天皇は葛城山で狩猟をした。

 

忽見長人 來望丹谷。

突然、背の高い人に谷間で出会った。

 

面貌容儀相似天皇。

顔や姿は大君とよく似ていた。

 

天皇 知是神 猶故問曰 「何處公也。」

大君は「神に違いない」と考え、「どこのお方か」と尋ねた。

 

長人對曰「現人之神。先稱王諱 然後應噵。」

背の高い人は答えて、「姿を現した神である。先に名乗りなさい。そしたら私が名乗ろう」と言った。

 

天皇答曰「朕是幼武尊也。」長人次稱曰「僕是一事主神也。」

大君は「私はワカタケルである」と名乗ると、背の高い人は「私は一言主神である」と名乗った。

 

遂與盤于遊田 驅逐一鹿 相辭發箭 竝轡馳騁。

ともに狩を楽しみ、一匹の鹿を追って、矢を放つことも互いに譲り合った。

 

言詞恭恪 有若逢仙。

言葉も恭しくて仙人に逢ったかのようであった。

 

於是 日晩田罷 神侍送天皇 至來目水。

日も暮れて狩りも終り、神は大君を来目川(くめのかわ)まで送った。

 

是時 百姓咸言「有德天皇也。」

このとき、世の人々は誰もが「大君は徳のあるお方である」と評した。

『古事記』にも同じような話がある。

 

於是答曰

そこでは一言主神は

 

吾先見問 故吾先爲名告。

吾は先に問われたから先に答えましょう。

 

吾者 雖惡事而一言 雖善事而一言 言離之神 葛城之一言主大神者也。

吾は悪意も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主大神である。

 

これは「凶事も吉事も一言で決める神」という意味であるとされる。

 

この一言主神は、葛城一言主神社〔御所市森脇〕に祀られている。

地元では「一言(いちごん)さん」の名で親しまれ、一言の願いであれば何事も叶えられる神、として信仰される。

 

 

 

葛城一言主神社〔御所市森脇〕

 

 

 

この神社は、東出雲出身の登美家がヤマトに移住してきたときに、東出雲王家の第8代目副王・事代主を祀って建てられた。

 

事代主という漢字は当て字であり、正しい意味では「言知主」である。

「知」とは「知らす」〔支配する〕という意味で、「言知主」とは武力ではなく「言論で統治する王」という意味だ。

「一言主」の神名も、その意味に因む。

 

一方、ヤマトに移住してきた西出雲出身の郷戸家〔神門家〕は、西出雲王家のアジスキタカ彦を祀る高鴨神社〔御所市鴨神〕を建てた。

 

そのため、葛城地方は古くから出雲族の居住地であった。

 

記紀では、雄略大君は一言主神と、仲良く猟をして別れたことになっている。

 

ところが、『続日本紀』には、「雄略大君と狩を競ったために、大君の怒りにふれ、土佐〔高知県〕に流されていた高鴨神を、葛上郡〔一言主神社の地〕に戻して祭祀した」という記事がある。

 

土佐国一宮の高賀茂大社〔土佐神社、高知市一宮〕の祭神は、このとき土佐に残した和魂(にぎみたま)と言われている。

 

またその神は、『土佐国風土記』(逸文)では一言主神とされている。

 

一言主神と高鴨神は混同されたか、あるいは同一視されたようだが、いずれにしても雄略大君が葛城地方の出雲族を支配下に治めようとし、命令に背いた人々を土佐に流した出来事があったらしい。

 

 

 

高賀茂大社〔土佐神社、高知市一宮〕

 

 

 

『古事記』には、次のような話もある。

 

初大后坐日下之時 自日下之直越道 幸行河內。

皇后様が河内の日下におられたとき、雄略大君は河内においでになった。

 

爾登山上望國內者 有上堅魚作舍屋之家。

そのとき山の上から国内を望まれると、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)を上げてつくっている家があった。

 

天皇令問其家云「其上堅魚作舍者誰家。」答白「志幾之大縣主家。」

大君は「その堅魚木を上げてつくっているのは誰の家だ」と尋ねられたので「志畿(しき)の大県主(おおあがたぬし:村長)の家です」と申し上げた。

 

爾天皇詔者「奴乎 己家似天皇之御舍而造。」卽遣人令燒其家之時

そこで大君は「あやつめ、自分の家を大君の宮に似せてつくったな」と言われて、直ちに人を遣わしてその家を焼き払おうとされた時

 

其大縣主懼畏、稽首白「奴有者、隨奴不覺而過作甚畏。故、獻能美之御幣物。能美二字以音。」布縶白犬、著鈴而、己族名謂腰佩人、令取犬繩以獻上。

その大県主は恐れおののき、平伏して「私は卑しい者でございますので、身分相応に気づかず過ってつくってしまい、誠に恐れ多いことを致しました。お詫びに、贈り物を献上しましょう」と申し上げ、白い犬を献上した。

 

故、令止其著火。

そこで大君は、その家に火をつけるのをやめさせられた。

 

 

 

堅魚木

 

 

 

この志畿の大県主とは、現在の志貴県主(しきあがたぬし)神社〔大阪府藤井寺市〕の地にいた、海部王朝の子孫の神八井耳(かむやいみみ)命を祖とする一族であったと考えられる。

 

この話は、大君と同じくらいの勢力を持つ豪族が、まだ残っていたことを示している。

 

雄略大君は、そのような豪族の存在を許さず、武力を持って完全に支配下に治める国づくりを目指したと考えられる。

 

 

 

 

 

 

ヤマト地方では、5世紀中葉〜後半につくられた古墳から、甲冑などの武具や、武器が多く出土する。

葛城市歴史博物館図録『古代葛城の武人』によれば、それらの武具や武器は、規模の大きな古墳からではなく、規模の小さな古墳から多く出土している。

 

例えば、剣上塚(けんじょうつか)古墳〔生駒郡平群町〕や兵家(ひょうげ)6、12号墳〔葛城市〕、五条猫塚古墳〔五條市〕、後出(うしろで)古墳群〔宇陀市〕、ベンショ塚古墳〔奈良市〕などが挙げられる。

 

 

 

 

 

 

これらはヤマト全体を守るように、ヤマトに通じる主要な道路沿いに造られた古墳であった。

そして5世紀後半は、雄略大君の泊瀬朝倉宮がヤマトの政権の中心地であった。

 

これらのことから、雄略大君の指示で、武具や武器類が要所を守る軍隊に配られていた可能性がある。

そしてその軍隊は有力な豪族ではなく、小規模の勢力によって組織されていたものと考えられている。

 

 

 

ベンショ塚古墳出土品〔奈良市ホームページ〕

 

 

 

つまり広域統治の思想を掲げる雄略大君は、有力豪族を牽制することを目的とし、新たに召し抱えた勢力によって、強力な大君直轄軍を組織した可能性が高いと考えられる。

 

さぼ