394年に応神大君が亡くなり、数年後に仁徳大君が即位してからも、和国は百済の朝貢を受けていた。
またその頃、和国は朝鮮半島に進出して、高句麗と攻防を繰り返していた。
仁徳大君は高句麗の脅威に対抗するため、中国の力を利用しようと考えたらしい。
当時の中国は南北朝時代であった。
北朝は遊牧民の五胡十六国を、北魏がまとめていた。
漢民族の南朝は東晋が治め、後に宋が治めるようになった。
東晋〜宋〔世界史年表〕
仁徳大君は、交流相手として中国の南朝を選んだ。
以後、仁徳王朝の大君たちは、南朝と頻繁に交流を持った。
中国の皇帝が、周辺諸国の王に官号や爵位を与え、主従関係を結ぶことを、「冊封(さくほう)」と呼ぶ。
周辺諸国の王が皇帝から爵位を授けられると、地位を保証され他国等に対し優位な立場を得ることができるが、その代わりに定期的な朝貢や中国暦の使用などの義務を負うことになった。
元帝〔東晋〕像〔在位317〜323年〕
和国王として冊封されることは、中国から外藩の国として承認されたことを意味する。
外藩とは中国の周囲にあって、中国を守るものと位置付けられた国を示す。
和の五王と呼ばれた仁徳王朝の大君たちは、中国の外藩としての意識を持ち続けた。
それは、『宋書』〔執筆年448年〕で雄略大君〔和王武〕が中国に対し、「和国は中国の外藩となっている」と述べていることからもわかる。
順帝の昇明二年、使を遣はして表を上る。
曰く「封国は偏遠にして、藩(はん)を外(げ)に作(な)す。昔より祖禰躬ら甲冑を擐(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。…。」
雄略大君〔和王武〕
413年に、仁徳大君〔和王讃〕が東晋安帝に、初めて遣使をおこなった。
この時、仁徳大君はオオサザキの一音を取って、自ら「讃(賛)」を名乗ったらしい。
東晋安帝像〔在位396(386?)〜419年〕
中国には中華思想があり、周辺諸国を野蛮国と見なしていたので、それらの国に卑字を使う習慣があった。
仁徳大君は中国から卑字を与えられる前に、自ら好字の「讃(賛)」を選んで使ったものと考えられる。
名を一文字にしたのは、中国が人名を省略して記録することを知って、省略されない名前を名乗ったからだ。
この慣習は、後に続く大君たちも踏襲し、それぞれ「珍」、「済」、「興」、「武」を名乗った。
東晋への遣使のあと、和国と新羅の関係は悪化したことが。『三国志記』に記録されている。
415年に和国は新羅と風島で戦ったが、勝利を治めることはできなかった。
418年に、新羅王・訥祇王(とつぎおう)の弟の未斯欣(みしきん)が、和国から逃げ帰るという事件が起きた。〔『三国遺事』では、425年の出来事とされる〕
高句麗では広開土王の子が次の王となり、寿命が長かったことから長寿王〔在位413〜419年〕と呼ばれた。
彼は、広開土王碑を建てたことで知られている。
彼は父の戦果を継ぎ、5世紀の朝鮮半島における高句麗優勢の情勢をつくり出した。
広開土王〔在位391~412年〕
420年に中国では東晋が滅び、宋〔南朝〕が建国された。
朝鮮半島での優位な立場をつくり出すため、仁徳大君は421年に宋に対し、建国の祝いの遣使をおこなった。
和国は百済との間では、良好な関係を維持していた。
数年前の418年には、百済は和国に使者を遣わし、白綿十匹〔ひつ:布地二反の単位〕を送っていた。
それで和国は、百済から山東半島を経由して、宋に遣使したと考えられている。
和国から宋への遣使は、この時を始めとして、478年まで続けられた。
和国からの遣使は、おもに中国皇帝の代が替わった時か、和国の大君の代が替わった時におこなわれた。
仁徳大君は、421年の遣使の際には何らかの官爵を授けられたものと考えられているが、その称号は『宋書』には記録されていない。
彼は、425年に宋へ2度目の遣使をおこなった。
『宋書』によれば、宋の元嘉2年(425)和王讃の使者として、司馬曹達が宋の文帝に朝貢したという。
「司馬」とは、中国では将軍号の下につく官爵であり、仁徳大君がこのとき既に将軍に就任していたと推測されている。
宋文帝像〔在位424〜453年〕
後に反正大君〔和王珍〕が「安東将軍・和国王」の称号を授けられたことから、仁徳大君も同じく「安東将軍・和国王」に任じられていたと考えられている。
さぼ