仁徳大君は政権を安定させるため、宗教の力も利用しようと考えた。

彼が思いついたのは、八十島での大君霊の継承儀礼であった。

 

縄文時代の大阪平野は、上町台地以外は海の底であった。

その後、淀川やヤマト川が運んできた土砂が堆積して陸地化が進み、「難波八十島」と呼ばれるほど多くの島々が大阪湾に誕生した。

現在でも淀川流域に、中島や姫島、御幣(みて)島、歌島、出来島、百島、西島などの島のつく地名が多いのは、その名残である。

 

 

 

弥生時代の大阪平野〔日本経済新聞〕

 

 

 

『摂津国風土記』(逸文)に、次のような記事がある。

 

「八十島」

〔摂津国難波の〕堀江の東に、沢があった。

広さは三・四町ばかりで、名を八十島と言った。

 

むかし女が自分の児を背負って、人を待っていた。

待つ間に、網で鳥を獲ろうとした。

すると、川の鳥が一斉に飛び立ち、網に掛かった。

 

鳥の数があまりに多かったので、鳥たちの力に引きずられて、沢に落ちて死んだ。

 

その時にいた人が頭の数を数えたら、人の頭が二つで、鳥の頭が七十八あった。

合わせて八十になるので、その沢を八十島と言うようになった。

 

この話の母のモデルは息長(おきなが)姫で、背負われた児は豊の御子・応神大君を例えている。

「人を待っていた」というのは、「児が育ち、強くなるのを待っていた」の意味であろう。

 

七十八という多い島の数は、武内宿祢の子孫の数を例えるらしい。

そして応神王朝が、武内宿祢の子孫に圧倒されたことを暗示している。

 

武内宿祢の子孫には、鳥の名のついた人が多い。

例えば、木兎(つく)宿祢の「ツク」は古語のミミヅクで、巨勢小柄(こせのおがら)宿祢の子息が大雀(おおさざき)臣・星川建彦であった。

大雀は、ミソサザイを意味する。

 

 

 

 

 

 

 

また、石川宿祢の後には、隼(はやぶさ)別(わけ)御子がいる。

そして、武内宿祢の子孫で、大君になられた御方の古墳は、和泉国の百舌鳥(もず)に並んでいる。

 

またこの話は、亡くなった息長姫とその養子の竹葉瀬の君〔応神大君〕が、八十島に深い関わりがあったことを示している。

仁徳王朝では、その故事が利用されて、八十島祭がつくられた。

つまりそれは、仁徳王朝の新大君が八十島の地で、息長姫と応神大君の霊を継ぐ即位儀礼であった。

 

 

 

八十島祭の行列が祭場に到着した様子〔八十島祭絵詞〕

 

 

 

その祭りでは、新大君が着る御衣が大きな筥(はこ)に入れられて難波の海岸に運ばれる。

そして海岸に着くと御衣の筥が開けられ、琴の音色に合わせて瀬戸内海の方に向かって御衣を振られる。

この時に、息長姫と応神大君の霊が御衣に乗り移る。

祭りの後に新大君がその御衣を着ることで、その大君が応神王朝の正式な後継ぎであることが示された。

 

 

 

幄舎(仮小屋)に参列する典侍とお祓いする宮主〔八十島祭絵詞〕

 

 

 

これは軍事クーデターで新王朝を樹立した仁徳大君が、自らを正式な大君であると権威づけるための、いわゆる見せかけの即位儀礼であった。

 

またその権威づけには、応神王朝にゆかりの神社も利用された。

祭りには住吉大社〔大阪市住吉区〕や、垂水神社〔大阪府吹田市〕、大依羅神社〔大阪市住吉区〕、海神社〔住吉大社境内の現・大海神社と推定〕、住道神社〔大阪市東住吉区の現・中臣須牟地神社と推定〕の神主たちが集められた。

 

 

 

大依羅神社〔大阪市住吉区〕

 

 

 

住吉大社は、二韓征服で功があった津守氏が神主となり、息長姫を祀っていた。

 

大依羅神社は依羅氏、海神社は津守氏〔海部氏の分家〕、住道神社は中臣氏と、それぞれ息長姫の二韓征服に従軍した重臣たちの神社であった。

 

この祭りによる新大君の権威づけは成功し、仁徳王朝の政権は安定するようになった。

そして仁徳王朝以降も大君・天皇の即位儀礼として継承された。

しかし、鎌倉時代の初めの1224年まで行われたが、以後廃絶した。

 

さぼ