姫巫女が行う大祭の前後の期間には、参加する豪族たちが三輪山山麓の扇状地・太田〔桜井市太田〕に宿舎〔縦穴住居〕を建てて、泊まるようになった。
太田の地は、三輪山の祭主・太田家の領地であった。
当主の太田タネヒコは、出雲王国とも親しく、郷戸家から美気姫を奥方に迎えた。
「太田」の地名は、彼の名前にちなんでいる。
太田の地には、石塚・勝山・矢塚などの小型の古墳群が造られた。
太田遺跡にあるこれらの初期の古墳は、太田家が造ったものと言える。
これらの古墳は、さほど大きくはない。
造られた時代は、大和で戦乱が続き、やや収まった頃なので、大きな古墳をつくる余裕がなかったらしい。
纏向遺跡〔奈良県桜井市 SankeiBiz〕
それらは方突円墳〔前方後円墳〕だが、太田家の親戚の吉備王家の古墳と同じ形だった。
その中で最も古い石塚古墳の、周濠から出土した木製品の年輪年代は177年であった。
周濠からは、吉備の古墳で見つかる特殊器台の宮山型に似た模様を持つ弧文円板の破片が出土した。
すなわち太田の古墳は、吉備国の初期古墳の影響を受けて造られたことが判明している。
弧文円板〔纏向石塚古墳発掘調査報告書 桜井市教育委員会〕
勝山古墳も、出土した土器により2世紀末に造られたと考えられている。
ここからは、朱塗りの板切れも多数出土している。
古墳の葬儀に朱が使われるのは、吉備の楯築古墳や出雲の西谷古墳の葬儀方法と共通性がある。
太田は、三輪山祭祀の姫巫女の住む所とされていた。
モモソ姫も太田家の支援を受けて、太田に住み、その地で大祭を行った。
大和の民衆は、武力による戦いを好まなかった。
物部勢の武力よりも、モモソ姫の宗教力の方に民衆の尊敬が集まるようになった。
そして、物部勢と磯城王朝との抗争は次第に収まり、大和に平和が訪れた。
モモソ姫の宗教力によって、大和中心の政権力が回復したと言っても過言ではなかった。
その平和な時代のことを、「モモソ姫の平和」と人々は呼んだ。
モモソ姫の祭りのために大神殿が建てられ、新しい町ができた。
神殿での祭りは、物部勢の器具の鏡を取り入れた形になっていた。
榊を根から抜き取って、枝に鏡をつけた。
丸い鏡は、太陽の女神の御神体とされた。
出雲の幸の神信仰では、丸い形は女神という考えがあった。
そして、相対する男神として、男のシンボルの「根」が揃っていなければならない、と考えた。
鏡は裏面の光る方が参拝者に向けられた。
太田タネヒコ〔八咫烏〕の道案内によって大和に連れて来られた物部勢力は、三輪山の太陽神信仰に飲み込まれてしまい、第1次物部東征は失敗に終わった。
その結果、物部勢は半数近くが九州へ帰っていった。
のちに太陽神信仰に対抗する月神信仰を掲げて、勢力を盛り返していくことになるが、その信仰の中心にいたのは宇佐神宮の姫巫女〔第2のヒミコ〕であった。
その勢力はやがて、魏の後ろ盾を得て大和へ侵攻することになる〔第2次物部東征〕。
戦乱をさけて大和から各地に移住した豪族たちは、移住先でも大和の信仰を続けていた。
大和で戦乱が収まると、その豪族たちが大和の大祭に出席するため、土器に自分の地元の土産物を入れて、太田の地に集まった。
大和と同盟関係の国の豪族たちも、同じように集まるようになった。
この大和川と巻向川に挟まれた太田の地が、近年発掘された。
吉野ヶ里時代に巻向川から大和川にかけて数本の水路が掘られ、付近に村が発達していたことがわかった。
また一辺が5mを超える、大型の建物の柱跡が見つかった。
これは当時としては最大規模の建物であり、他の建物との並び方から考えても祭殿跡であると考えられた。
卑弥呼の宮殿かと話題を集めた纒向遺跡の大型建物跡〔SankeiBiz〕
この遺跡は、もともと「太田遺跡」と呼ばれていた。
現在は纏向(まきむく)遺跡と名前が変えられたため、もともとこの地は古代は太田家の領地であり、「太田」という地名も領主名にちなんだものであった。
「卑弥呼の宮殿か」と話題を集めた大型建物跡などの復元模型〔桜井市教育委員会〕
その大型建物跡の南側にあった穴から、約2700個の桃の種が見つかった。
桃の実は、古代には魔除けの威力があると考えられていたので、祭祀に使われたあと硬い種だけが残ったものと考えられる。
ランダムに選んだ15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、西暦135〜230年という結果が得られた。
その結果から、この遺跡はモモソ姫の神殿跡であった可能性が高い。
纒向遺跡から出土した桃の種
太田遺跡の出土土器には珍しい特色があり、遠方で作られた土器が多く持ち込まれていた。
外来系土器は全体の15%に及び、他の遺跡に比べて非常に多い。
その中では、近江や伊勢・駿河など東海地方、関東地方の土器が6割もあった。
これらの地域は、大和から外へ移住した安倍勢力や、尾張勢力の地盤であった。
他に瀬戸内を含めて吉備王国関係者の地盤であった。
そのほかには、親交のある出雲王国領の山陰や北陸の土器もあった。
一方、九州の土器はほとんど見つからなかった。
その理由は、太田家の勢力に圧倒された物部勢が、九州へ戻ったためと考えられる。
『三国志』「魏書」には、その頃に魏の使節が訪問した北九州の伊都国の長官名は「爾支(にぎ)」であったと書かれている。
これは、物部氏の一族が、饒速日(にぎはやひ)の「ニギ(饒)」を名乗ったことを示している。
当時、九州地方は物部勢が支配していたので、伊都国も物部勢の支配下に入っていたらしい。
東南陸行五百里 至伊都國。
官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。
東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。
そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚・柄渠觚という。
さらに『三国志』「魏書」には、魏の使節が訪問した北九州の国々は、女王国・ヤマタイ国の属国であると書かれている。
有千余戸 丗有王。
皆統属女王國。
郡使往来常所駐。
1000余戸の家があり、代々の王が居た。
みな女王国に従属している。
帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、足を止める所である。
大和の姫巫女・モモソ姫のほかに、九州にも宇佐神宮の姫巫女がいた。
宇佐神宮の姫巫女は物部氏と血縁関係を結び、物部勢の中心者になった。
だから伊都国は、宇佐神宮の姫巫女が支配する物部王国の属国であった。
つまり、魏に朝貢したヤマタイ国とは、物部氏支配の日向の妻〔投馬〕国のことであった。
そのため、九州の土器が見つからない太田遺跡を、魏に朝貢したヤマタイ国と考えるのは誤りである。
さぼ