倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族〔王族〕。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神〔三輪山の神〕との神婚譚や箸墓古墳〔奈良県桜井市〕伝承で知られる、巫女的な女性である。
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、意富夜麻登玖邇阿礼比売命<おほやまとくにあれひめのみこと>/絙某姉<はえいろね>/蠅伊呂泥<はえいろね>)との間に生まれた皇女である。
同母兄弟として、『日本書紀』によると彦五十狹芹彦命(比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命)、倭倭迹迹稚屋姫命〔倭飛羽矢若屋比売〕があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命〔日本書紀なし〕の名を記載する。
墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか)に治定されている。
遺跡名は「箸墓古墳〔箸中山古墳〕」で、墳丘長278メートルの前方後円墳である。
倭迹迹日百襲姫命 大市墓〔奈良県桜井市〕
『日本書紀』によると、モモソ姫は大物主神〔事代主〕の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。
モモソ姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、モモソ姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山〔三輪山〕に登ってしまった。
モモソ姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたためモモソ姫は死んでしまい、大市に葬られた。
時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山〔現・奈良県香芝市西部の丘陵〕の石が築造のため運ばれたという。
三輪山〔奈良県桜井市〕
『日本書紀』の記す伝承は、人と蛇神との三輪山型の神婚を表すとともに、妻問婚の習俗を表すとされる。
また、『古事記』での活玉依媛伝承のように神・人が結ばれて子が産まれる型〔神人交流型〕ではなく、別離し死去する〔神人隔絶型〕であるという特徴を持っている。
またモモソ姫の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼をモモソ姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、前述のように箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。
上記の通り彦五十狭芹彦命〔吉備津彦命〕の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域〔主には備前国・備中国・備後国・讃岐国〕に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。
特に讃岐国一宮である田村神社では地域の水神と習合し、主祭神として扱われている。
〔以上、ウィキペディアより〕
再び出雲旧家の伝承によると、登美家の分家の太田タネヒコは、物部勢の武力を利用して、登美本家〔賀茂家〕やフトニ大君〔孝霊〕を大和から追い出すのに成功した。
そのあと、太田タネヒコが三輪山の祭主となった。
三輪山を遥拝する祭りは、三輪山西方の太田家の領地で続けることになった。
大和では、物部勢が侵入する前から幸の神信仰が盛んであった。
春と秋に行われる大祭の時は、登美家の姫が代々姫巫女となり、三輪山にこもる太陽の女神を祀っていた。
登美家に姫がいない場合は、磯城家の姫が姫巫女になった。
大君をはじめとして大和中の豪族たちがそこに集まって、祭りに参加した。
遠方から泊まりがけで参加する豪族たちもいた。
初期の大和政権では、このような祭りを中心とした政治方式がとられていた。
それで、政治のことを「マツリゴト」と呼んだ。
古代では、祭祀の方が政務よりも上に見られていた。
また母型家族制であったので、祭祀は女性によって執り行われた。
だから、当時は姫巫女を中心とした政権であった。
三輪山の祭主が太田家に変わると、モモソ姫が姫巫女に推挙された。
記紀では、モモソ姫は大君の娘とされているが、出雲の旧家の伝承によれば、彼女は太田家の娘であった。
モモソ姫は太田家の勢力を後ろ盾として、三輪山の祭りの司祭者となった。
古代、司祭者は女性たちがつとめ、彼女たちは姫巫女(ひめみこ)と呼ばれた。
支那の史書では、和人の名前を省略して記録することが多いので、『三国志』「魏書」に書かれたヒミコとは、ヒメミコの「メ」を省いた表記らしい。
姫巫女はいわば役職名であり、代々継がれていったので、歴史上には何人もの姫巫女がいた。
それを一人の女性と考えてしまうと、歴史を誤って理解してしまう。
さらに『三国志』「魏書」には、中華思想により「卑」という軽蔑の漢字を使って、「卑弥呼」と書かれた。
日本人が自国の人物を蔑字で書くのはよくないので、卑弥呼はヒミコ、倭国は和国と書く。
『後漢書』「東夷伝」には、次のように書かれている。
桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁
事鬼神道 能以妖惑衆
於是共立爲王
桓帝・霊帝の治世の間〔146年 – 189年〕、倭国は大いに乱れ、更に互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。
鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。
ここに於いて共に王に立てた。
それは、大和国内の豪族たちの覇権争いや、大和勢〔フトニ王〕の吉備・出雲侵攻、および、第一次物部東征が長期的に連続して起こったことを示している。
『三国志』「魏書」には、次のように書かれている。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、
倭國亂、相攻伐歷年。
乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼。
事鬼道、能惑衆、
年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、
唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。
その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。
倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年。
そこで共に一女子を立てて王とした。
卑弥呼という名である。
鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。
年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。
王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。
ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。
この男王が治めた70〜80年間とは、海部王朝の初代と2代目の時代を示している。
その後は磯城王朝の時代となり、大王の力は衰え、各豪族たちが覇権を争うようになった。
磯城王朝時代は王・巫女制であり、政務を担当する男王よりも、むしろ三輪山祭祀の姫巫女の方が、民衆の尊敬を集めていた。
政権中枢では、「政治のミカド」と「神のミカド」が両立し、国を治めるためにどちらも必要なものとされた。
「政治のミカド」で決定された政策は、「神のミカド」で「吉」の占い結果が得られなければ実行されない。
そのため古代の政治は、「マツリゴト」と呼ばれた。
国の行事は、税を集める政治より、神祭りの方の規模が大きかった。
政務を行う建物よりも、姫巫女の神殿の方が立派であった。
支那の史書家は、和国のこのような政治の様子を聞いて、「神のミカド」の姫巫女のことを女王であると考えたらしい。
この姫巫女・モモソ姫は、『三国志』「魏書」に書かれた第1のヒミコであった。
魏国に朝貢し金印を与えられたのは第2のヒミコで、モモソ姫より後の時代の宇佐神宮の姫巫女であった。
魏国はこの2人を同一人物と誤解したらしい。
なお、『三国志』「魏書」に書かれたモモソ姫の国は「大和〔邪馬台〕国」であるが、のちに魏に朝貢した九州の女王国と同じ国であるかのように書かれた。
いわゆる「邪馬台国」というのは九州の女王国の方である。
〔勝友彦著『魏志和国の都』参照〕
安田靫彦「卑弥呼」(滋賀県立近代美術館)
『梁書』「和伝」では、次のように書かれている。
漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年
乃共立一女子卑彌呼爲王
彌呼無夫壻 挾鬼道 能惑衆
後漢の霊帝の光和年間〔178年 – 184年〕倭国は乱れ、何年も攻め合った。
そこで、卑弥呼という一人の女子を共に王に立てた。
(卑)弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。
ここに書かれた姫巫女は、モモソ姫のことであった。
太田タネヒコは、モモソ姫の世話をした。
その様子が、上記のように『三国志』「魏書」に書かれた。
モモソ姫が「女王」と書かれた理由として、大和で権力者となった太田家の支援を受けた影響が大きかった。
モモソ姫の時代は、磯城王家の「政治のミカド」よりも太田家の「神のミカド」の方の実力が上となり、モモソ姫は実質上の女王のような存在であった。
さぼ