第1次物部東征の後で、物部勢が大和地方に侵入すると、宗教戦争が起きた。

大和の人々が銅鐸の祭りをすると、物部勢が集団で襲って、銅鐸を壊してまわった。

右差し 銅鐸を壊されたヤマト

 

 

物部勢は少しずつ勢力を拡大した。

その影響で、大和の豪族たちの内部に分裂が起き、大和内部で争乱が起きた。

 

フトニ大君〔孝霊〕が吉備国に去った後、磯城王家を継いだのはクニクル〔孝元〕であった。

クニクルは物部勢力と協力し、物部氏の娘を妃として迎え、大和の争乱を収めようとした。

しかし、それはうまくいかず、磯城王家は権力を回復することができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

大和の旧勢力と物部勢との対立の原因の大部分は、宗教の違いだ。

磯城王家と尾張家、登美家は、銅鐸をシンボルとする幸の神信仰なのに対し、物部勢は、鏡をシンボルとする道教神崇拝の信仰であった。

 

道教は伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖となって教団が創設されたと語られることが多い。

 

 

水牛の上に乗った老子

 

 

 

物部勢は、鏡を木にかけて祈る祭りを行なった。

大和の人々にも、その祭りに参加するよう強制した。

 

その祭りの職掌を分化した内容が、『古語拾遺』に書かれている。

 

日臣命(ひのおみ)が、来目(くめ)部を率いて宮門を開閉する。

饒速日(にぎはやひ)命が、宮廷内の物部を率いて、矛と盾をつくり備える。

天富命(あめのとみ)が、忌部氏を率いて、天璽(あまつしるし)の鏡と剣を捧げ持って正殿に供え、瓊玉を懸け、供え物を並べて、大殿祭・御門祭りの祝詞を唱える。

 

この文の饒速日命とは、彼の子孫の物部氏を示している。

物部氏は神殿を建てて、そこで祭りを行った。

天璽の鏡とは、道教の神獣鏡のことである。

 

 

太宰府天満宮の鏡

 

 

 

『古事記』は最後に書く。

 

邇芸速日(にぎはやひ)命の御子・宇摩志麻遅(うましまじ)命〔物部氏の祖〕が、荒ぶる神を和らげ、従わぬ者たちを除き、樫原の宮で大王となられ、政治を行なわれた。

 

すなわち、伊波礼彦命〔橿原神宮で即位した神武〕が消えて、物部氏の宇摩志麻遅命が大王となられたように書かれている。

 

 

 

 

 

 

 

しかし物部勢は、武力で勝っても大和の民衆には支持されなかった。

物部勢が武力で攻めても、出雲族は逃げるのみで、従わなかった。

物部勢に税を納めることもしなかった。

逆に出雲族は三輪山の祭りに参加し続けたので、その祭りは拡大を続けた。

物部勢の王・宇摩志麻遅(うましまじ)は、大和で大王になることを望んだが、その願いは叶わなかった。

 

さぼ