吉備国で楯築王陵が造られる前から、出雲王国では四隅突出方墳という独特の墳墓が造られていた。

この墓は四方に突出部があるもので、四角と✖️印が組み合わさった形になっている。

右差し 出雲の四隅突出方墳

 

✖️印は、女神と男神の体が重なり得られる「生命創造」の尊い働きを示している。

世界各地の古墳にも、✖️印の絵や浮き彫りが見られる。

墓に使われる✖️印は、生命の再生を祈る形と言われている。

 

古代には多くの国で、善人は死後再生すると信じられていた。

それは、古代エジプトのパピルス文書にも書かれている。

死後ミイラにして墓に安置して置くと、数百から数千年後に生まれ変わると考えられていた。

 

エジプトのピラミッドは正方錐形であり、それを上空から見ると稜線が✖️印に見える。

生命を与えるのは太陽神の役割と考えられていたので、✖️印を太陽神が見ると新しい命を与えてくれると古代人は信じていた。

 

 

 

エジプトのピラミッド〔NASA〕

 

 

 

 

出雲族の幸の神信仰でも、同じように考えられていた。

その✖️印を強調するために、墓の四隅に突出部をつくったと出雲では伝えられている。

この形の墳墓は、広島県三次地方でつくられ始め、出雲・伯耆地方へ広まった。

妻木晩田遺跡にも四隅突出方墳があるが、一辺2mほどの子供用の小さい墓にも四隅に突出部があった。

すなわち突出部が、古墳への上り口でないことは明らかであった。

 

 

 

四隅突出型墳丘墓〔妻木晩田遺跡:米子市ホームページ〕

 

 

 

吉備勢と出雲王国との戦いのあと、出雲では銅鐸祭祀をやめて、出雲王の大型の四隅突出方墳を積極的に造ることになった。

 

外敵の侵入路の斐伊川を先祖霊に守ってもらうという考えから、西出雲王・郷戸家は、斐伊川の左岸・西谷〔出雲市大津町〕に墳墓を築いた。

 

ここは古代には、猿田彦大神の隠る鼻高山の遥拝地でもあった。

生命再生のためには、太陽神に✖️印を見せるだけでなく、幸の神の若い交合の神・猿田彦大神に見せる方がさらに良いと考えられていた。

それで、墳墓の地に西谷が選ばれた。

 

 

 

西谷2号四隅突出型墳丘墓と鼻高山〔出雲市大津町字西谷〕

 

 

 

この西谷は昔は「サイダニ」で、現在は「ニシダニ」と呼ばれている。

元々は幸の神の鼻高山を拝む聖地として「サイダニ(斎谷、または幸谷)」と呼ばれていたらしい。

 

西谷墳墓群の9号墓の上には、昭和になってから三谷神社が移された。

その社には、郷戸家の「竜鱗枠(りゅうりんわく)に剣花菱」の紋章が飾られている。

この紋章が出雲大社で使われていることは、出雲大社の神霊が郷戸家の社から移されたことを示している。

エジプトに王家の谷があるように、西谷は西出雲王家の墓所となった。

西谷には、出雲王国時代に、王と親族の27基の墳墓が造られた。

そこには6基の四隅突出方墳があり、妻木晩田遺跡のものよりも規模が大きくなっている。

中でも4基は王墓に相応しい大きさで、西暦200年前後の数十年間に、3→2→4→9号の順に造られたらしい。

最大の9号墓は、大きさが約62×55m、高さは5mにもなる。

これらは、大きさから言っても古墳に匹敵する。

従って、西谷墳墓群は、日本における初期の古墳群と言える。

 

 

 

西谷墳墓群

 

 

 

そこの3号墳を発掘調査すると、それはまさしく王墓の様相を示していた。

大きさは約52×42mで、当時としては最大級であり、斜面に置かれた石の数は2〜3万個である。

 

 

 

西谷墳墓群 3号墓

 

 

 

埋葬部分は、大きな穴の底に二重の棺を納めるという入念な造りで、棺の内側には赤い水銀朱が塗られていた。

 

古代人は、生きた血の色と同じ赤色を、命の色と感じていた。

また、赤は女の聖なる出産力の色だと考えた。

水銀朱を使うのは、死者の魂が赤子の体に乗り移って生まれ変わるように、祈るためであった。

そのため、朱を遺体の周りに敷き詰めたと言われる。

 

 

西谷3号墓 第4主体の水銀朱

 

 

 

出雲王の死に際して、水銀朱を使う習わしは、その子孫の家では、江戸時代まで続いていた。

遺体の口に木の皮製の漏斗(ろうと)を使って水銀朱を流し込むと、水銀の殺菌力により遺体は腐らず、古墳造成の期間中も悪臭がしなかった。

この処置は、古代の豪族家の場合には、遠隔地から歩いてくる縁者に備えるためであった。

そして、遠隔地から時間をかけて到着する参列者が、重要人物の死顔を拝み終えるまで葬儀は続けられた。

この長い期間の葬儀方法を喪狩(もがり)〔「喪」は葬式、「狩」はある目的で遠出すること〕と言った。

または、現墓(あらき)〔死者の顔が墓から現れること〕とも言った。

 

後の古墳時代の後期に石室が横穴式に変わったのは、喪狩の時に石棺の近くで拝顔するためであった。

そのため出雲の古墳の中には、家型石棺に窓がつくられている形がある。

これは、石棺を閉じた後も、弔問客が死顔を拝むためであった。

また、石室の遺体の骨のまわりに朱が残っている場合は、この葬法によるものであった。

 

西谷3号墳では、主体部の棺を置いて埋めた後、その上に4本の巨柱を用いた施設が建てられていた。

柱に囲まれた棺の上にあたる場所には、朱のついた丸い石が御神体のように置かれており、丸石の周りには砂利が敷かれていた。

喪狩の時に、参列者は御神体石を遺体の代わりに拝んでいたらしい。

 

 

西谷3号墓 主柱穴完掘状態

 

 

 

この古墳からは土器が合計300個以上も出土し、墓上での儀式に使われたと考えられている。

それらは出雲以外に、吉備〔岡山県南部〕や、越〔北陸地方〕から運ばれた土器の特徴を持つものもあった。

 

その時期は出雲王国の後期であったから、王国の範囲は既に狭まっていたが、出雲王国につながりのある各地方から代表がはるばる集まって、葬儀を行なっていたことが明らかになった。

その中には、和睦した吉備王国からの参列者もあった。

 

当時は、地元でつくった壺を、参列者が持ってくる習わしがあった。

参列者は壺に土産を入れて訪れ、墳墓の上に供えたものと考えられる。

吉備の土器の中には、特殊器台もあった。

 

 

西谷3号墓の土器

 

 

 

これにより、西谷3号墳は楯築遺跡より後に、ほぼ同時期に造られたことが明らかになった。

棺内部に水銀朱を使い、棺の上に御神体石を置くという点でも、吉備と出雲の古墳の造り方は似ていた。

 

 

 

西谷3号墓〔西谷3号墓発掘調査報告書〕

 

 

 

第二次物部東征により出雲王国が滅亡した3世紀には、四隅突出古墳は次第に少なくなり造られなくなった。

その形式は出雲王国だけのもの、という意識があったらしい。

代わりに、旧出雲王の勢力圏では方墳が造られた。

出雲は吉備と共に古墳の発祥地である、という誇りが出雲族にはあった。

だから、方突円墳が普及するようになってからも、古代出雲王と血縁のあった豪族は、方墳をつくり続けた。

それは、日本最初の王国の誇りを、忘れないようにするためでもあった。

 

東出雲王・富〔向〕家では、東から攻めてくる敵を防ぐために、安来市荒島の丘に祖先の古墳群を造った。

そこには、西谷古墳群と同時期の仲仙寺古墳群がある。

その付近は、王国末期にかけて四隅突出方墳や方墳が造られ「王陵の丘」と呼ばれている。

 

富〔向〕王家の分家は北陸地方に進出したので、そこにも四隅突出方墳が造られた。

富山市婦中町の富崎1号墳は四隅突出であるので、富〔向〕家の分家の古墳と考えられる。

富崎の地名も、富〔向〕家にちなむものであった。

近くの越中射水郡は、のちに富〔向〕家の親族の伊弥頭(いみず)国造の支配地となった。

 

 

 

富崎1号墓〔富山市婦中町〕

 

 

 

福井市小羽山町の小羽山古墳群にも、富〔向〕家の分家の3基の四隅突出方墳がある。

その中の30号墓からは、鉄の短剣や管玉などが出土している。

当時それらは貴重品なので、この古墳が有力者の墓であったことがわかる。

 

3世紀に、高倉下〔紀国造家〕の子孫の武内宿祢大田根という人が、富〔向〕家と血縁関係を結んだ。

 

 

 

 

 

 

彼の子孫の1人は蘇我氏を名のり、越後国三国〔福井県〕国造となった。

 

 

 

 

 

富〔向〕家は蘇我家と長く親戚付き合いを続けた。

それで、王陵の丘〔安来市荒島〕の富家の古墳造成に、蘇我家が協力してくれた。

 

その王陵の丘の大成(おおなり)古墳からは、三角縁神獣鏡と素環頭太刀(そかんとうたち)が出土した。

また造山1号墳からも、三角縁神獣鏡が出土した。

これらの三角縁神獣鏡や素環頭太刀は、富〔向〕家が武内宿祢大田根からもらった物と考えられる。

 

 

素環頭太刀〔大成古墳:安来市荒島〕

 

 

 

越前・蘇我家から出雲に派遣された人々は、飯梨川河口村付近に住んだ。

それで、そこには「越前」や「福井」の地名が残っている。

その近くの飯梨岩船古墳〔安来市岩船町〕には、古墳造成を指揮した蘇我家関係者が葬られたらしい。

その南方1kmの地に、彼の屋敷があったらしく、そこには宗賀〔蘇我〕神社〔現在は奈賀江神社〕が建てられている。

右差し 方型古墳と出雲人の誇り

 

その社の東南1kmの所には、かわらけ谷横穴墓群〔安来市植田町〕がある。

そこから出土した双龍環頭太刀も、蘇我家関係者ゆかりの品であると考えられる。

 

 

 

王陵の丘〔安来市荒島〕

 

 

さぼ