出雲王国の霊畤〔祭りの庭〕は、そのころ田和山〔松江市乃白(のしろ)町〕にあった。

1997年にそこが発掘され、田和山遺跡と名づけられた。

 

「タワ」とは方言で峠のことで、初めは「峠の神」と言われる幸の神・三神が祭られていた。

そのうちに女神の「野城の大神」だけとなり、野城はノキと呼ばれて、「乃木」の地名になり、「城」の漢字がシロと呼ばれて、「乃白」の地名になった。

 

そこは見晴らしの良い丘で、北方に宍道湖を見渡すことができる。

初めは見張り台として使われ、敵の軍勢が見えたら、狼煙を上げる準備をしていたらしい。

 

 

 

田和山遺跡〔松江市乃白町〕

 

 

 

紀元前1世紀頃に、田和山に環濠が掘り巡らされ、頂上が祭りの場となった。

枝付きの樹木が立てられ、その枝に銅鐸を吊してマツリゴトが行われた。

 

 

 

田和山遺跡 3重の環濠

 

 

 

その立てた樹木が「神柱」の信仰を招いた。

神道の大祓詞(おほはらへのことば)では「宮柱太敷き立て」の言葉が、古くから使われている。

 

・・・大倭日高見國(おほやまとひだかみのくに)を安國(やすくに)と定め奉(まつ)りて

下つ磐根(いはね)に宮柱太敷(みやはしらふとし)き立て

高天原に千木高知(ちぎたかし)りて

皇御孫命(すめみまのみこと)の瑞(みず)の御殿仕(みあらかつか)へ奉りて・・・

 

神の柱として、4本の柱を立てることも、あったらしい。

その宗教的構造物の柱跡が、能登の真脇遺跡や陸奥の三内丸山遺跡のもので、その形が諏訪大社では、本殿を囲む4本の御柱(おんばしら)の形で残っている。

右差し 諏訪の建御名方

 

 

 

真脇遺跡の環状木柱列〔石川県鳳珠郡能登町〕

 

 

 

三内丸山遺跡 6本柱〔青森市〕

 

 

 

 

諏訪大社 本殿を囲む4本の御柱

 

 

 

 

田和山では神の柱が心柱となり、それを守る周りの柱の数が多くなった。

合わせて9本柱となった。

その柱跡が、田和山遺跡の山頂に残されている。

 

 

山頂部・9本柱建物跡〔田和山遺跡 松江市〕

 

 

 

この9本柱の形は、山陰地方に多い。

例えば妻木晩田(むきばんだ)遺跡〔鳥取県大山町妻木〕の妻木山地区と、洞の原地区に各1か所ある。

 

弥生中期の青木遺跡〔出雲市東林木町〕では、敷石の囲みがあり一段高くなった所に、9本柱の跡が発掘された。

それは9本柱の祭りの跡か、掘立柱の出雲式神殿跡と思われる。

 

 

 

神祭りの場かー出雲市青木遺跡〔しまねっこCH〕

 

 

 

この形に壁と床が付いて、社に発展したものが、出雲の大社造り本殿形式だと考えられる。

大社造りでは、心柱を特に太くして、尊重する。

心柱は後に、大黒柱に発展した。

 

古代に出雲王国の範囲であった地方、例えば北陸や越の国では、家の中心にある柱を太くして、大黒柱と呼ぶ家が多い。

大黒柱の棚には、恵比寿(えびす)と大黒がまつられた。

恵比寿は事代主命の別名で、大黒は大国主命の別名である。

 

出雲王国後期には、田和山の霊畤では、出雲形銅剣が付けられて、大祭が行われた。

出雲のマツリゴトに参加した各地の豪族に、銅鐸ではなく出雲形銅剣が授与された。

 

マツリゴトに参加した豪族に授与するために、豪族の数に対し充分なだけ多くの銅剣を用意した。

しかし豪族の中には鉄器を望み持って帰る人が多かったので、銅剣は余ったと伝えられている。

 

銅剣を得て帰郷した豪族たちは、所有していた銅鐸を土中に埋納し、新たに銅剣の祭りを行うように変わった。

銅剣は貴重であったので厳重に保管され、代わりに石製の神剣を使うこともあったらしい。

田和山遺跡からは、出雲形銅剣と同じ形の石剣の断片が発見されている。

右差し 田道間守の田和山攻撃

 

出雲形銅剣をくばり始めた頃は、出雲は青銅器勢力圏の3大拠点の1か所になった。

東四国地方は、葛城王国の成立後は、そちらの勢力圏になっていて、銅鐸祭祀を続けていた。

 

後期出雲王国の範囲から、出雲形銅剣が出土する。

しかし、この時期の出雲王国の勢力範囲は、出雲形銅剣の出土範囲よりやや広いと言える。

 

なぜなら出雲王国の豪族の中には、鉄器だけ持ち帰る人がいたからだ。

鉄器は実用品として使われると、擦り減ってしまう。

また保存していても、錆びて跡形がなくなる。

 

だから、鉄器の遺物が出土しにくい。

つまり、出雲形銅剣の出土しない地域にも、出雲のマツリゴトと結び付いた豪族たちが住んでいた可能性がある。

出雲王国の範囲は、吉備王国成立前は、出雲国と伯耆・美作・吉備と四国中部であった。

 

讃岐は古くから出雲文化圏であった。

金刀比羅宮の由緒書きによると、大国主が象頭山に本拠を定めて、この地方の経営に当たったという。

それで後に、大国主命が祭られた。

 

また、伊予国風土記の逸文に「湯の郡」〔道後温泉〕の記事がある。

 

大穴持命(おほあなもちのみこと)、見て悔い恥ぢて、宿奈毘古那命(すくなひこなのみこと)を活(い)かさまく欲(おもほ)して、大分(おほきた)の速水(はやみ)の湯を、下樋(したび)より持ち度(わた)り来て、宿奈毘古奈命を漬(ひた)し浴(あむ)ししかば、蹔(しまし)が間(ほど)に活起(いきかへ)りましました。

 

大穴持命は〔洞窟で死んだ少名彦命の姿を〕見て、〔助け得なかったことを〕後悔し、恥じて、少名彦命を生き返らせたくお思いになって、九州大分の速水の湯を地下の水道によって、伊予まで通し、少名彦命をその湯に浸し浴させなさったところ、しばらくして蘇生しました。

 

この記事は少名彦命の不慮の死を、四国の人が知っていたことを示している。

それは伊予が古くは、出雲王国の範囲にあったからだ、と考えられる。

右差し 出雲王たちの遭難

 

吉備王国は、ますます強力になった。

そしてシンボルの平形銅剣を各地の豪族に配り、味方の陣営に引き入れた。

吉備王国が平形銅剣を配り始めてから、青銅器勢力圏は4大拠点になった。

そして吉備王国はどんどん、出雲王国の領域に進出した。

 

吉備王国の勢力圏である平形銅剣の分布範囲は、青銅祭器の分布図のようになった。

 

 

『出雲と大和のあけぼの』斎木雲州著より

 

 

 

この分布図は紀元1年前後のもので、春成秀爾教授の作ったものだ。

それによると、吉備王国の最終の勢力圏は、淡路島の西から国東半島に及ぶ瀬戸内の沿岸の全てであった。

 

その頃の物部王国のシンボルは、銅矛などであったが、大型化していた。

その支配地は筑紫全域に広がり、さらに壱岐と対馬・豊前の諸国や国東半島にまで及んでいた。

伊予や土佐の西部の豪族も、速吸(はやすい)の瀬戸〔豊予海峡〕を渡り、筑紫へなびく情勢であった。

 

さぼ