大彦の息子は、富家の事代主の妃・沼川姫(ぬなかわひめ)にちなみ、沼河別(ぬなかわわけ)を名乗った。
「別」とは大王の子孫で、領主に任命された人の称号である。
沼河別は、『日本書紀』では全権将軍を意味する「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」と表記される。
武渟川別
伊賀の地を後にした沼河別勢は、父君・大彦とは別れ、伊勢国を通って東海地方へ進み、そこで物部勢と対抗することにした。
三河地方に進出した沼河別勢は、そこで銅鐸の信仰を守り続けていた。
そこには銅鐸(さなぎ)にちなんだ猿投山(さなぎやま)があり、麓には猿投神社〔愛知県豊田市猿投町〕が鎮座する。
猿投山の近くの豊田市手呂町(てろちょう)からは、98センチメートルと巨大な部類に属する三遠式の「見る銅鐸」が出土している。
手呂の銅鐸〔豊田市郷土資料館〕
沼河別の勢力下に置かれた東海地方も、同じく「クナト国」と呼ばれ、それが変化して「クヌ国」と発音されたらしい。
そこに住んだ安倍一族には久怒(くぬ)臣がおり、この家はのちに久怒朝臣となった。
『魏書』に出てくるクナト国の久々智彦(狗古智卑狗)もいた。
『新撰姓氏録』によると、阿倍朝臣と同祖で、孝元天皇の皇子の大彦命の後裔であるという。
伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)二神の婚姻によって生みだされた神々のなかに、木の神久久能智神(くくのちのかみ)があったことが『古事記』にみえており、久々智氏が木と関係の深い氏族であり、杣(そま)山の管理や運営を職としたことを暗示している。
沼河別たちは、その後も物部王国に追われて、遠江・駿河地方に移ってからも銅鐸の祭りを続けた。
それで、その地方からは「見る銅鐸」が出土している。
しかし、結局その地も物部勢に占領された。
『旧事本紀』には、久怒国造は物部氏一族の者が任命されたと書かれている。
大彦王が亡くなった後では、沼河別は安倍家を名乗り、クナト国を名乗った。
そこに住んだ安倍勢力にちなんで、安倍川の地名も残っている。
安倍は摂津国三島の事代主の領地だった阿武山にちなむという。
沼河別は、その後伊豆に退き、その地に摂津国三島郡にちなむ三島の地名をつけた。
すなわち、大彦王家は事代主の子孫であることを、「安倍」の氏で示そうとした。
そして、三島の人々は大彦王家を守るために、駿河国までついていき、伊豆半島の入り口に三島の町を造った。
そこに三嶋大社を建て、祖先の久那斗ノ大神〔大山祇命〕と事代主を祀った。
三嶋大社〔静岡県三島市〕
『和名抄』には、遠江国山名郡久怒郷〔静岡県磐田市〕や駿河国阿倍郡久怒〔静岡市久能山〕の地名が書かれている。
安倍勢は、久能山に城を構えていた。
静岡浅間神社〔静岡市〕の境内社・麓山(はやま)神社は、古来より賤機(しずはた)山上に鎮座し、クナト国にちなむ久那斗ノ大神〔大山祇(おおやまつみ)命〕を祀っている。
麓山神社〔静岡浅間神社の境内社〕
3世紀に第二次物部東征が行なわれ、物部・豊連合王国の軍が動き始めた。
大和内の物部勢力は連れてきた隼人族を、新王宮の護衛に使う習慣ができた。
後者は夜も火を焚いて番をし、任務中に犬の遠吠えをさせられた。
儀式では、槍と盾を持ち薩摩伝統の舞いを行った。
物部氏率いる九州勢は、大彦の国〔クナト国〕を攻めるために、先祖の国・中国に援助を求めた。
当時中国は魏と呉・蜀の三国に別れていたが、スサノオ〔徐福〕が山東半島の出身だったから、その方面を支配する魏に使いを送った。
魏の軍人が来て、多くの幡と太鼓を叩いて進軍すると、大彦王の軍は勢いに押され東へ向けて撤退したという。
『古事記』には「大彦の子の武沼河別を東方の十二国に派遣して、そこの服従しない人たちを平定させた」と書かれている。
しかし、真相は「派遣された」のではなく、物部勢に「追いやられた」のであった。
さぼ