ヒボコは豊岡の地で亡くなり、出石神社に祭られた。
ヒボコ直系の子孫・神床(かんどこ)家は、糸井造(いといのみやっこ)姓から変わった家系である。
『新撰姓氏録』に、書かれている。
糸井造はヒボコの子孫である。
神床家は、ヒボコの死後1,500年あまり、出石神社の神主を務めたが、今はそこの神職から離れているという。
しかし神床家は、現在でもヒボコの子孫であることを誇りとしている。
神床家では、次のような話が言い伝えられているという。
ヒボコは辰韓の王の長男であった。
王は、次男を後継ぎにしようと考えた。
成人後に後継ぎを決めると争いになると考え、長男・ヒボコ少年に家来を付けて、財宝を持たせて和国に送った。
そのため、ヒボコは父王を恨んで、反抗的な性格になっていた。
そのため和国に来たとき、出雲王の命令を素直に受けなかった。
その結果、家来とともに苦労することになった。
ヒボコは、和人と早く仲良くなるために、和人の女性を娶るよう、父王から指導を受けていた。
その話が変わって「和人の妻を追いかけて和国に来た」と、『古事記』に書かれた。
ヒボコは豊岡盆地の開拓で忙しい日々を送り、そのまま豊岡盆地の出石で亡くなった。
息子がヒボコを埋葬し、その前に出石神社を立てた。
出石神社境内の禁足地が、ヒボコの埋葬地である。
ヒボコには敵が多かったため、墓が壊されることを恐れ、禁足地が墓であることは秘密にされてきた。
立派な石の墓も造られなかった。
本家の子孫は、社を守ることだけに気を使った。
社を拝むことは、墓を拝むことと同じであった。
禁足地〔出石神社境内〕
ヒボコに関する神床家の伝承は、出雲の旧家の伝承と完全に一致する。
但馬と出雲という離れた場所の家の伝承が一致するということは、その伝承が史実である可能性が高いことを示している。
その後、ヒボコの子孫は豪族となり、先住民を追い払いながら勢力を増していった。
瀬戸の干拓工事が行われた近くの気比の村にも、ヒボコ集団の子孫が住んでいた。
彼らは、最初は葛城王国〔海王朝や磯城王朝〕に同調し、銅鐸の祭りを行なった。
気比の東を、気比川が北へ流れている。
その少し上流に、伊奢沙和気(いざさわけ)命をまつる気比神社がある。
気比と神社の中間地点に大岩があり、そこから後世に4個の銅鐸が出土した。
気比銅鐸出土地
これらの銅鐸の中には、同じ鋳型で作られたと考えられる「銅鐸」が存在した。
2号銅鐸は、加茂岩倉21号銅鐸・伝大阪府陶器銅鐸・伝福井県井向銅鐸と同笵関係〔同じ鋳型で作られた〕にあった。
また3号銅鐸と同じ文様の鋳型が、東奈良遺跡〔大阪府茨木市〕から出土している。
越後から北九州の宗像地方まで、日本海沿岸に展開していた出雲王国は、海部氏の丹波勢力が強力化すると分断されかかった。
しかし、出雲と丹波両勢力の大和移住によって葛城王国が成立すると、出雲・葛城〔大和〕連合王国時代となった。
その両王国のシンボルは、同じく銅鐸であった。
ヒボコ勢も初めは銅鐸の祭りを行い、連立王国に同調するかに見えた。
しかし、勢力を増強すると、独立化して但馬(たじま)王国のようになった。
その結果、出雲王国の東部は但馬で分断され、出雲の勢力は弱まりつつあった。
さぼ