むかし、男〔業平〕がいた。
手に入れられそうもない女〔高子〕を、何年も求婚し続けていたが、やっと盗み出して暗闇の世界へ逃げて来た。
〔三途の川のような〕芥川を連れて渡ると、草の上の露〔光る玉〕を見ておびえて、「あれは何」と女は聞いた。
行く先〔地獄〕は遠く、夜も更けて、鬼がいる所とも気が付かなかった。
神〔閻魔大王〕が激しく鳴り〔怒り〕雨がひどく降るので、荒れた倉の奥に女を押し入れて、男は弓、胡簶(やなぐひ)を負ひて〔弓と、矢を携帯する容器を背負ったまま〕戸口に座った。
はやく夜が明けてほしい、と思っているうちに〔眠り夢を見た〕、鬼が早くも一口で女を食べてしまった。
女は「あっ」と言ったが、雷の音で男は気が付かなかった。
次第に夜が明けて、男が見ると、連れてきた女は消えていた。
地団太ふんで、悔し泣きしたが、どうにもならなかった。
男は歌を詠んだ。
白玉か 何ぞと人の 問ひしとき
露とこたへて 消えなましものを
「霊(ひ)の玉じゃないの」と 女がおびえた時
一緒にあの世に 消えてしまえば良かったのに
この話は、二条の后〔高子〕がいとこの女御〔藤原明子〕の御許〔染殿〕に宮仕えのように寄寓しておられたが、美人であられたので、〔業平が〕盗んで背負って逃げたのを、兄の堀川の大臣〔基経〕と太郎〔長男〕国経〔後の大納言〕がまだ下臈(げらふ)にて〔官位が低い頃で〕、宮中へ参内する途中で、ひどく泣く人の声を聞き、つかまえて連れ帰った。
その働きを鬼に例えたのだ。
まだとても若くて、后が普通の身分でおられた時のことだとか。
二条の后と鬼〔伊勢物語 6段〕
この話は「女をさらって、地獄に落ちる世界」をイメージし、女を地獄の鬼に奪われる話だ。
業平は武官の仕事が多かったから、この段の男は彼の様装に似せて「弓、胡簶を負ひて」と書かれた。
「草のうへに」なぜ露があるのか。
「いと暗き」中で、「夜もふけ」たら、露は見えない。
だから、露は「霊の魂」を暗示している。
「白い怪しい光」を思わせる。
この歌は新撰集〔358〕に「よみ人知らず」として書かれている。
これは多美子が作った歌だと考えられる。
権力者の藤原基経や国経に対し普通の人は、「下臈」の言葉は使わない。
だからこの筆者は極めて位の高い人だったと推察できる。
当てはまる人は数少ない。
すなわち、女御で正三位に昇った多美子だからこそ、若い基経らを「下臈」と呼べる訳である。
多美子が基経らを嫌っていたことも関係がある。
「いとこの女御」とは高子の父が長良で、その弟〔良房〕の娘が女御・明子(めいし)という関係を言う。
『伊勢物語』人物関係図
多美子は、二条の后と業平の関係を、略奪結婚と駆け落ちのお伽話の形で描いている。
現実ばなれはしているが、業平と高子の恋の異常さは印象づけられる。
しかも、この段では太郎国経という実名が示されている。
また、二条の后と「いとこの女御」、「堀川の大臣」という職名により、高子と基経と明子の名前が分かる仕組みになっている。
お伽話風になっているけれども、これでは読者が本当の話だと錯覚しやすい。
さぼ