天智帝は初めは筑前国・長津の宮におられたが、667年〔天智6〕に近江に遷都された。
当時は豪族出身でないと、役人になるのは困難だった。
そこで漢部人麿は柿本家の養子になり、柿本姓になった。
それから舎人(とねり)〔下級官吏〕として、大海人皇子の住む三諸〔三輪山〕の離宮に仕えた。
三諸山と離宮跡
このことは、人麿が書いた長歌と短歌〔万葉集3227、3231作者名不記載〕に表れている。
・・・神代より 言ひ継ぎ来(きた)る 神名火(かむなび)の 三諸の山は
春されば 春霞(はるがすみ)立ち 秋行けば 紅(くれなゐ)にほふ
神名火の 三諸の神の 帯にせる 明日香の川の 水脈(みを)速み
生ひため難き・・・苔むすまでに・・・さきく通はむ・・・
この「明日香の川」は「初瀬の川」の写し間違いと考えられる。
三諸山を廻るのは、初瀬川だ。
月日は 行き変はれども 久に経(ふ)る
三諸の山の 離宮地(とつみやどころ)
海部家〔丹後の篭(この)神社社家〕の伝承によると、海部家出身の天村雲命が大和に進出して、最初の大王として即位したという。
天村雲命の祖父は火明(ほあかり)命で、別名は饒速日(にぎはやひ)だ、と伝わる。〔斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』より〕
天村雲の剣は出雲王家から贈られたもので、そののち尾張家に渡り、熱田神宮の八剣社にまつられた、という。
天村雲の剣は、いわゆる三種の神器の一種とされる。
これを尾張家が建てた熱田神宮が所有していたが、盗まれる事件があった。
「天村雲の剣」の名前を「草薙の剣」に変えるために、ヤマトタケル伝説が作られた、と言われる。〔大元出版『お伽話とモデル』より〕
天智紀によると
僧道行が草薙の剣を盗んで、新羅に向かって逃げた。
途中で嵐に遭い、迷って戻った。
ことになっている。
僧・道行の盗剣
この剣は、そののち〔天智期に〕朝廷に献上された由が『播磨国風土記』〔讃容郡(さよのこほり 佐用町)中川里〕に書かれている。
僧道行が盗んだとされる剣は、旧河内国の大島郡等乃伎(とのき)村にあったが、天智期に播磨国讃容郡中川の里の和仁(わに)部の具(そなう)が、等乃伎村の者から買った。
ところが、その家の家族は死に絶えた。
後世に、苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)がその家の畑を掘り、その剣を見つけて、朝廷に献上した。
日本書紀には、剣の祟りがあったので、朱鳥元年〔686〕に尾張国の熱田神宮に返したと書かれている。
しかし『播磨国風土記』では、その天村雲の剣を熱田の社に返した年が天武13年〔684〕7月となっている。
曽禰連(むらじ)麻呂が返す役に当たった、と書かれている。
これについては『播磨国風土記』の記述が正しい、と考えられる。
その天村雲の剣が問題になる1年前の天武12年の2月には、大津皇子が始めて朝政を執(つかさど)ることになった。
話を戻そう
その後、大津皇子に渡されることになったらしい。
しかし、皇后の皇子の存在を考え、大津皇子が受け取りに応じなかった。
それで元の所在地に返された、と考えられる。
天智帝は671年〔天智10〕に、長男・大友皇子を太政大臣に任命された。
奈良時代の漢詩集『懐風藻』の冒頭には、大友皇子の漢詩2首が、飾られている。
詩の作者紹介には
博学多通で、文武の才幹を持つ
と書かれている。
唐の使節が会って
この皇子は、人相が並みのお方ではない。
中国に行かれても、高位に昇れる人だ
と評した。
大友皇子
皇子のある夜の夢に、老翁があらわれ、皇子に太陽を捧げた。
すると、誰かが現れ、脇の下から太陽を横取りしたので、驚いて目が覚めたという。
彼は天智帝により、太政大臣に指名された。
それは、大友皇子を次の帝にすると決めたものと見なされた。
しかし当時は、身分格差の時代だった。
大友皇子の母は宅子郎女(やかこのいらつめ)という伊賀出身の采女だった。
有力豪族出身の后妃の皇子しか皇太子になれない、との常識があったので、豪族たちの間に不満の気運が生じた。
その情勢を見て、大海人皇子は自分が政権を取る好機が来たと考えた。
大海人皇子は后の連れ子だった。
普通は皇太子になる資格はなかった。
しかし、母の宝皇女は皇極女帝〔重祚(ちょうそ)して斉明女帝〕になられたから、自分は天皇出生の皇子で、皇太子の資格があるという気持ちがあった。
日本書紀には
大海人皇子は皇太弟(もうけのきみ)だ
と書かれている。
しかし、この記事はおそらく、後で造られたものだろう。
『本朝皇胤(こういん)紹運録』の記述によると
大海人皇子は天智帝より三才年上だった
すなわち自分は、中大兄皇子より年上だという意識があったのだろう。
大兄(おおえ)とは、一家の財産を受け継ぐ人を言う。
そして中大兄皇子が先に王位に就いた。
さぼ