播磨とキビ・出雲との戦争の間に、ヤマト王国内は他の御子たちの勢力が強くなり、フトニ旧大王の権威はすでになくなっていた。
すなわちフトニは地方王国の王と見なされた。
大キビツ彦と若タケキビツ彦は、吉備の中山を中心として東西にそれぞれの館を建てて本拠地とした。
吉備の中山 細谷川付近
キビツ彦兄弟は吉備王国の成立を宣言し、吉備王国の強化を図った。
西出雲王国から取り上げた青銅によって新型の平型銅剣を作った。
それを自国のシンボルとし、支配地に配った。
大キビツ彦と若タケキビツ彦の没後、吉備の中山には社が建てられた。
吉備津神社
今、吉備の中山の西には吉備津神社、東には吉備津彦神社が鎮座している。
東西共に主祭神は、大吉備津彦命となっている。
相殿神の関係から、西の吉備津神社が兄の大キビツ彦、東の吉備津彦神社が弟の若タケキビツの館と思われる。
吉備王国とヤマト王国の2国が対立する時代となった。
吉備津彦神社
古事記では第1次出雲戦争が、オオナムジ神話として記されている。
キビツ彦軍による出雲王国の攻撃が大名持(おおなむじ)の兄・八十神たちが大名持を迫害する話として書き換えられている。
この例えの半分は正しい。
キビツ彦と出雲王は兄弟ではなく、親戚であった。
しかしキビツ彦の軍勢により、出雲王が攻撃を受けたことは、史実であった。
物部王が強力になり、和国の大王になる時代が来ると考え、キビ王国は物部型銅矛の形に似た銅剣をシンボルにするようになった。
その先は銅矛のように幅広く、両脇に突起が付いたものであり、「平型銅剣」と呼ばれている。
平形銅剣〔東京国立博物館〕
強力になったキビ王国は、シンボルの平形銅剣を各地の豪族に配り、味方の陣営に引き入れた。
キビ王国が平形銅剣を配り始めてから、キビ王国は次第にイズモ王国の領域に侵入した。
キビ王国の勢力圏である平形銅剣の分布範囲は、淡路島の西から国東半島に及ぶ瀬戸内海沿岸のすべての地域となった。
そのころの物部王国のシンボルは銅矛などであったが、大型化していた。
その支配地は筑紫全域に広がり、さらに壱岐とツシマ・豊前の諸国や国東半島にまで及んでいた。
伊予や土佐の西部の豪族も、速吸の瀬戸〔豊予海峡〕を渡って物部王国になびいていた。
「後漢書」に、和の100余国のうち30か国が、漢に通じていた、と書かれている。
その中に壱岐国もあった。
壱岐の石田町が発掘され、そこの原ノ辻遺跡から、後漢の硬貨「貨泉」が発見された。
原ノ辻遺跡〔国境の島 壱岐〕
この町が漢と通じていた証拠であった。
原ノ辻は壱岐の中心的な集落で100戸以上の家があったらしい。
その村の回りに「三重の環濠」が造られていた。
つまり物部王国と吉備王国との戦いに、巻き込まれる恐れを感じた防護の準備をしていたことが考えられる。
あるいは中国へ行く和の強国が、朝貢土産にするための奴隷狩りをされるのを防ぐための、防戦の準備かもしれない。
さぼ