出雲の伝承では、いわゆる出雲族は民族移動して出雲に来たという。

鼻の長い動物(ゾウ)の住む国から、クナト王に率いられて移住した。

 

3500年以上前に、西北方から戦闘的な民族〔アーリア人〕がインドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。

彼らは騎馬民族で、父系家族制になっていて多産だった。

森の樹木を切り払い、どんどん牧場を広げて、勢力を強めた。

 

 

アーリア人のインド侵入

 

 

 

農耕生活をしていた先住民〔ドラヴィダ人〕の多くは、アーリア人の奴隷にされた。

アーリア人の男たちは、ドラヴィダ人の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まりこみ、女たちに彼らの種を植える行動に出た。

彼らは父系家族民なので、戦いに長じていた。

 

ドラヴィダ人の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く対抗できなかった。

結果として、アーリア人との混血児をドラヴィダ人の女が産み、育てることが多くなった。

この情勢の中で南方へ逃れるドラヴィダ人もいたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。

 

当時インドには、バイカル湖方面から、ブリヤート人の商人が交易に来ていた。

彼らから「シベリアの南方の大海原の中に、住民の少ない温暖な島がある」と聞いたクナト王は、そこに移住しようと考えた。

 

王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元気な男女を募集した。

数千人の応募があったらしい。

そこで食料などを家畜の背中に積んで、移民団は出発した。

 

まず、北の山岳地帯を越えた。

 

 

北の山岳地帯を目指す

 

 

 

そこから東に進み、朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかもしれない。

しかし、紀元前の古代世界では、それは危険なことであった。

 

獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。

ましてや弓矢を持つ異民族の国の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。

 

だから、住人の少ないシベリアを通るのが無難である。

しかし、冬のシベリアは極寒の地である。

 

冬を避けて秋までに通過するために、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。

 

 

 

タクラマカン砂漠を迂回する山岳地帯

 

 

 

山岳地帯を抜けると、ひたすら荒野が続く。

 

 

ゴビ砂漠

 

 

 

一行は北へ進んだ後に、黒竜江上流〔バイカル湖近辺〕に着き、その地の人々と一緒に、しばらく暮らしたらしい。

 

篠田謙一氏の研究報告によると、遺伝子DNAデータバンクに登録されている縄文人29体のうち、ブリヤート人と同じ塩基性配列のものが17体あり、その配列はブリヤート人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。

 

登録数が少ないので偏りが考えられるが、ブリヤート人が縄文人に混血していることは間違いない。

アムール川上流に自生していたソバの実をブリヤート人が和国に伝えた、とも言われる。

 

その上流で、移民団は木材を用意し、筏と櫂を作った。

そして食料を、家畜の背中から筏に移した。


 

 

川に筏を浮かべた黒竜江の上流

 

 

 

そこからは、川に沿って東に向かった。

案内役のブリヤート人の部族も、おそらく一緒に来ることになったと考えられる。

 

筏に乗った後は、簡単であった。

食料と家畜は途中で食べたり、食料と交換して減少し、最後には全てが移住者の胃袋に消えたことであろう。

 

 

 

黒竜江の中流

 

 

 

川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を運んでくれた。

歩き疲れることはなかった。

 

 

アムール川の中流

 

 

 

古代にシベリア人が和国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がアムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。

 

 

アムール川の下流

 

 

 

アムール川は、縄文時代の重要な交易の道であった。

流れが止まると、島に着いた。

樺太〔サハリン〕だった。

民族移動の集団は樺太西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り島」と呼んでいた北海道を通り、日本の本州に上陸したと、旧出雲王家の伝承は語る。

 

 

出雲族の移住ルート

 

 

 

この時に一緒に移民した人々を出雲族と言うが、彼らはサルタヒコの信仰を持っていたらしく、サルタ族とも呼ばれた。

 

九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康氏が、社家の伝承を本にしている。

それに出雲族の移住について書いている。

 

すなわち「サルタ族がシベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。

宇佐八幡の近辺に住んでいた宇佐族は、サルタ族より先に日本に住んでいたらしい。

 

出雲族が古代インドから来たことは、縄文時代の日本語〔ヤマト言葉〕がドラヴィダ語にそっくりであることで理解できる。

 

国語学者の大野晋は著書『日本語とタミル語』で日本語はタミル語に最もよく似ている、と解説している。

例えば、タミル語の基本母音(a, i, u, e, o)が同じで、文法・文章構成の語順も似ている。

タミル語は、インドのドラヴィダ語の一種である。

 

 

 

ドラヴィダ語圏

 

 

 

 

インダス文明の言語がドラヴィダ語に近いことは、ほぼ確定している。

 

出雲族は古代インドのドラヴィダ人だった、と考えられる。

日本人の遺伝子の検査により、出雲族にはドラヴィダ人の血の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになった。

 

しかし縄文時代には出雲族が最も多かったので、ドラヴィダ語に古代モンゴル語などが混じって出雲語ができた。

それが基になって日本語ができた。

 

つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語となり日本語が形成されたらしい。

 

本州に渡った後、本州北部に長く住んでいたが、その後、移住者は各地に分かれて行った。

クナト王の子孫は日本海沿岸を南に移動し、最後には出雲の地に住み着いた。

 

暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い寒い出雲に住んだのか、その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。

 

黒い川とは現在の斐伊川のことであろう。

その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。

 

 

斐伊川

 

 

 

出雲族の伝承では中国山地には良質の砂鉄があり、それを使うと低温で鉄ができる。

その鉄を欲しがる人が集まったので、出雲が都になったという。

 

タタラは、インド地方の言葉で「猛烈な火」を意味する。

またその製鉄技術法を、タタラという。

出雲方面では古代から、野ダタラによって鉄が作られた。

 

 

 

 

自然に川底に溜った砂鉄は「川粉ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。

後では山の真砂〔花崗岩が風化したもの〕がくずされて、「鉄穴(かんな)流し」が行われた。

それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。

 

 

 

「鉄穴(かんな)流し」〔もののけ姫〕

 

 

 

このやり方は江戸時代まで行われたが、河川汚濁防止法により今は禁止されている。

 

 

かんな流しによる土砂の下流域への流出〔汽水域の科学(高安)ver.2009〕

 

 

鳥上山の周辺には、多くの野ダタラ跡があった。

捨てられた金糞(かねくそ)が散らばり、タタラで使った木炭の破片が土の上にこぼれている。

 

島根県邑南町日貫油谷にある、3世紀の悪谷遺跡から出土した金糞が、新日本製鉄の大沢氏の分析により、砂鉄系鉄滓(てっさい)であることが証明された。

 

 

 

 

「かんな流し」で削り取られた山を棚田に再生〔奥出雲〕

 

 

 

出雲の砂鉄の出る山地と野ダタラの穴を作る土地を所有し、製鉄と鉄器生産を支配したので、古代出雲王はオオナモチ (大穴持)〔出雲主王〕と呼ばれたと言われる。

 

すなわち出雲王家は、東と西に二つあった。

その時代に年長の方が主王に、年少の方が副王になった。

主王はオオナモチ(大穴持)と呼び、副王はスクナヒコ(少名彦)と呼んだ。

 

西出雲王家の八千矛=大国主(オオクニヌシ)が8代目オオナモチの時

スクナヒコは、東出雲王家の事代主(コトシロヌシ)がつとめていた。

 

事代主の時代〔紀元前2世紀〕に、タタラ製鉄が行われたから、事代主の娘に、蹈鞴(たたら)五十鈴姫〔天村雲大王の后〕の名がついた。

 

 

 

 

 

 

大野晋は著書『弥生文明と南インド』の中で「古代インドから、タタラ製鉄法が日本に伝わった」と証明している。

 

出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は、各地から求められた。

豪族たちが最も欲しがった鉄器は、双刃の小刀であった。

それはウメガイと呼ばれた。

 

銅は鉄ほど固くなかったから、ウメガイが求められた。

ウメガイは木を削って日用品を作るために使われた。

 

鉄器は貴重なことから、豪族しか使えず、庶民はまだ石器を使っていた。

つまり当時は、金石併用時代であった。

その頃、出雲の鉄製品は出雲王国以外からも求められ、出雲は「鉄器の国」と言われていた。

 

ドラヴィダ族の住んでいた熱帯では、一年中、常緑樹が濃緑色に茂っていた。

ところが、新しい移住地では、春に芽が出たときの森の色が目にしみるように美しく感じられた。

 

彼らはその色を愛でて自分たちの住む地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ。

この発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。

 

日本上陸後、約1000年を経て、民族統一の気運が生じた。

そして、出雲王国が成立した。

この国は武力による統一国家ではなく、同じ信仰により結ばれた王国だという。

皆がインドに居た時と同じ信仰だったからだ。

その信仰が「幸の神」になった。

 

民族の先祖霊を守護神と定め、サイノカミと呼んだ。

山陰地方ではサイノカミを「幸神」と書いている。

民族神は、家族神として構成された。

クナト王の名前を使い、父神をクナト(久那斗)大神とした。

母神を幸姫(さいひめ)ノ命と言い、その夫婦神の石像が造られて拝まれた。

 

 

 

夫婦神像〔松江市山代町〕

 

 

 

 

息子神にはインドの象神〔ガネーシャ〕が当てはめられ、サルタ彦と呼ばれた。

「サルタ」とはドラビダ語で長鼻を意味するので、サルタ彦は「鼻高神」とも呼ばれる。

 

若くて元気なサルタ彦は盗賊や亡霊の侵入を防ぐ役を与えられ、村境の峠道や境川の橋を守ったので、道の守り神として「道の神」とも呼ばれた。

 

イズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。

春分の日に春祭を、秋分の日に秋祭を村中で行った。

それらの日を元日とし、182日を1年と数えた。

 

春秋の元日に年齢を1つ加える習慣なので、弥生人の年齢は現代人の2倍であった。

 

その後、出雲族の各地の代表は、春分と秋分の日に王宮の前に集まり大祭を行った。

そして、久那斗の大神の隠(こも)る山とされた火神山〔伯耆大山〕に向って一緒に礼拝し、祭りでお互いに、親睦を計った。

これが「マツリゴト」の始まりだった。

そしてクナト王の子孫である出雲王をオオナモチ と呼び、大祭を国の行事とした。

 

各代表の出雲での祭りが、全出雲族の政治となった。

各家庭では幸の神を祈り、また村全体では石神の祭りが行われた。

 

 

 

ミトゥナ神像〔インド〕

 

 

 

幸の神の男女一対の女夫神像は、紀元前1世紀に造られたインドのミトゥナ神像と似ていて、インドと共通のルーツを持つ信仰であることが感じられる。

現代のインドのヒンズー教とも似ている。

 

出雲族は、インド北部から日本に移住する時に、アーリア人の作ったバラモン教よりも古い、古代ドラヴィダ族の信仰を持ってきた。

それが、久那斗の大神の信仰になった。

 

さぼ