私は「南無阿弥陀仏」とことあるごとに唱えています。
「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏にすべてをお任せします」という意味だそうです。
そして「阿弥陀仏」とは無限の光と無限の命を持つ仏様だそうです。
この阿弥陀仏はどこにいるのでしょう。
結論からいうと自己の内の最深部にいると思います。
自己の内をみるとまず表面的な意識があります。
これは自己の思いを自覚できるごく表面的な部分です。
その奥に自己が築いた心理的な壁があります。
さらにその奥にネガティブな自己像があります。
このネガティブな自己像が自己を外界から守るために自己の周囲に頑強な壁を築いています。
さらにその奥に恐れがあります。
さらにその奥に誤解があります。
さらにその奥に自己を生かしているものがあります。
ここに生かしているものと生かされているもののふたつがあることになります。
誤解というのは生かされているものが生かしているものに対して持つ誤解です。
生かしているものに自己に対する生殺与奪の絶対的な権限があると信じているがゆえにいつ消滅させられるかわからないと誤解して恐れているのです。
この生かしているものを誤解してこれとの対比でネガティブな自己像が形成されています。
生かしているものの意義は生かすことにあり消滅させることにはありませんし消滅させることもできません。
この生かしているものが阿弥陀仏です。
さらにいえば阿弥陀仏とはこの生かしているものを人びとが理解しやすいように擬人的に表現したものにすぎません。
生かしているものの上に「阿弥陀仏」と書いた立札をたてているようなものです。
生かしているものにも生かされているものにも姿形はありません。
姿形は生かされているものが存在論的不安から逃れるために自らつくり出した観念が現象化したものです。
肉体をみて「たしかに私はある」と自らを納得させているのです。
姿形のかわりにあるのは生かしているものと生かされているものとの間に生ずる歓喜です。
生かしているものと生かされているもののさらに奥には存在するとかしないとかそういうことが問題にならない状態があります。
これは無ではありません。
無とは存在論的不安がつくり出した観念にすぎません。
生かしているものと生かされているものが生ずる前の状態が私が「根源的な状態」と呼ぶものです。
そこでは存在するとかしないとか、有るとか無いとか、そういうことは問題になりません。
そういうことが問題になるのは生かされているものが生じたあとです。
生かされているものが存在論的不安を抱いたがゆえに問題にしているのです。