先日「チ。―地球の運動について―」というアニメを観ました。
天動説を信じる中世にあって地動説を研究して迫害される人びとの物語です。
非常に良い作品でした。
私にとって今まで観てきたなかで一番良いアニメだったかもしれません。
私は昔から人間のエゴ、特に人間に向けられる悪意に非常に恐怖を感じていました。
また拷問というものが非常に怖く他人事のようには思えないところがあります。
「異端」という言葉にも妙に惹かれるところがあります。
もしかしたら異端として迫害され拷問を受けた過去生があったのかもと思っています。
逆に誰かを迫害して拷問した過去生もあったのかもしれません。
そのどちらも自分自身のなかに感じます。
ところで「悟り」についてです。
「悟り」とはどういうものか、あらためて考えてみました。
「存在」という現象には二面性があります。
相寄って存在するという一面。
相反して存在するという一面。
相反するとは一旦ふたつに分かれるということです。
そしてそれらが相寄ることにより存在という現象が生じます。
存在は相寄って存在することに喜びを感じ、相反して存在することに苦しみを感じます。
喜びだけを感じて存在し続けることはできません。
また苦しみだけを感じて存在し続けることもありません。
存在する限りこの二面性から逃れることはできません。
実際にはこの二面性は喜びと苦しみに限らず無数にあるので存在する限り喜怒哀楽、幸不幸は避けることができません。
存在する限り永遠の幸福というものはありません。
ところで存在という現象は実のところほんの一瞬の出来事です。
先日投稿した刹那瞬です。
本当はこの刹那瞬ですべては完結しています。
ですがこのほんの一瞬の出来事を積み重ねると私たちの物語が出来上がります。
この物語によって私たちは「私はある」と思い無の観念に対する恐れから逃れているのですが、このようなことをしなくても私たちは刹那瞬の間に十分に存在しています。
ただそれを自覚していないだけです。
そして喜怒哀楽、幸不幸を次の瞬間に持ち越して、喜や楽や幸は手放すまいと執着し、怒や哀や不幸は去ってほしいと苦しむのです。
悟ったひとは存在の二面性を受け入れています。
また刹那瞬に十分に存在していることを自覚しています。
ですから喜怒哀楽、幸不幸をそのまま受け入れてさっさと手放しているのです。
究極的には刹那瞬の間にすべてが完結しています。
さらに、悟ったひとは刹那瞬と刹那瞬の間、つまり自己と世界が生じては滅して、また生じては滅する、この滅と生の間に起こっていることも意識しています。
つまり存在という現象を全体的に深く意識しているのです。