昭和天皇は「朕ココニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝國憲法第八条第一項ニヨリ一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シヲ公布セシム」との緊急勅令のお考えを示し、これを受け枢密院は27日午前2時40分に戒嚴令施行を決定、午前3時50分をもって東京全市に“戒嚴令”が公布、午前8時20分に“奉勅命令”は天皇の允裁を得た。

この戒嚴令は、同年7月18日午前0時をもって戒嚴が解かれるまでの142日間布かれることとなる。

但し、「戒嚴司令官ハ三宅坂付近ヲ占據シアル將校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属師團長ノ隷下ニ復歸セシムへシ」としたこの奉勅命令(臨變參命(臨時変更参謀本部命令)第三號)は正式には翌28日午前5時8分に発令されており、27日内はその効力は発揮していない。

蹶起将校たちは、この奉勅命令に服さなかったとする勅命違反の逆賊として処断されたわけであるが、蹶起将校たちは遺書のなかで実際に下達されることはなかったとする主張を一様にしており、陸軍省発表の裁判記録のなかでも、下された命令を受領した“歩一(歩兵第一聯隊)”の聯隊長小藤恵陸軍大佐(当時)が「伝達ヲ企図セル時ナリシモ、同人等ノ感情ノ激化甚シキニ由リ暫クコレヲ保留セリ」とあり、どうも第一師團司令部にて意図的に下達しなかったとみられている。

戒嚴司令官には、皇道派青年将校らの思想に理解を示していた東京警備司令官の香椎浩平陸軍中将が兼補した。

当初、戒嚴司令部は三宅坂の東京警備司令部に置かれたが、午前6時から九段の軍人會館(現：九段会館テラス)に移された。

因みに、陸軍は本省を、警視庁も本庁舎を蹶起部隊により占拠されたため、陸軍省および參謀本部は憲兵司令部に、また警視庁もその本部を神田錦町署(現：神田警察署)に暫時的に移転している。

27日午前4時40分、香椎は「戒作命(戒嚴作戰命令)第一號」を発令。

この「戒作命第一號」では、「二十六日朝来出動セル部隊ハ麹町地區警備隊ト軍隊區分」とされ、蹶起部隊は南部麹町地区の警備に当たる部隊として認知されたこととなる。

因みに、この命令は帝國ホテル(現：帝国ホテル東京)に於いて村中孝次に下達されている。

また「戒作命第七號」により午後7時以降は小藤の指揮下に入ることとなり、宿営命令も下達され、野中隊は鐵道大臣官邸(現：参議院第二別館南棟付近)、鈴木(金次郎)隊は文部大臣官邸(現：自民党本部付近)、清原(康平)隊は大蔵大臣官邸(現：参議院議員会館付近)、栗原隊・中橋隊は首相官邸、田中隊・磯部隊は農林大臣官邸(現：衆議院第一議員会館付近)、丹生隊は山王ホテル(現：山王パークタワー付近)、そして安藤隊は料亭“幸楽”(現：プルデンシャルタワー付近)が宿営先となり、それら宿営先には支援者や差し入れなども寄せられ、磯部浅一の『行動記』によると将校も兵たちもすっかり安心しきっていたとのことである。

だが、大元帥たる天皇が蹶起部隊を原隊に戻せと明確な意思をお示しになられた奉勅命令の下達が迫るなか…

つまり、これは絶対的な統帥大権の発動であり、これに従わぬということは錦旗に抗する逆賊・賊軍となることを意味しており、蹶起部隊がこのまま原隊復帰に応じない場合、この関係性のまま攻撃をすることは、まさに“皇軍相撃”となるわけであり避けなければならない。

28日午前中に軍事參議官の真崎甚三郎、阿部信行、西義一の三大将と蹶起将校側を代表して野中四郎陸軍大尉との会見が陸相官邸で行われた。
ここで野中は「事態の収拾を真崎閣下に御願ひ申します。この事は全軍事參議官と全靑年将校との一致せる意見として御上奏を御願い申したい。」と述べたが、真崎の答えは「君等が左様云ってくれることは誠にうれしいが、今は君等が聯隊長の云うことをきかねば何の處置もできない。」と思いの他の塩対応であった。
後に磯部はこの会見の重要性について言及し、「吾人(野中)はシッカリと正義派參議官に喰ひついて幕僚を折伏し、重臣・元に対抗して戦況の発展を策すべきであった。真崎、阿部、西らに蟎の如くに喰ひついて脅迫、扇動、如何なる手段をちってもいゝから之と離れねばよかったのだ。」と後悔している。
結局、野中は他の幹部将校らと相談したうえで原隊へ復帰することを承諾させられ、また各方面からの説得交渉も受けるなか陸相官邸の他の幹部連の大勢も帰順論にシフトしていった。

これを受け“将校は自決し、大命に従い下士官兵は陛下に返上する”旨の報告が為された戒厳司令部はとりあえず安堵につつまれた。

ただ磯部は、「皇軍相撃が何だ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、もし同志が引き上げるならば、余は一人にても止まりて死戦する。」と強く主張し、別室にこもり「天地も避けよ」と号泣したという。

そしてもう一人、こうした考えに最も激怒し、強硬に反対を唱えたのが安藤輝三陸軍大尉であった。

もともと武力蹶起には反対の穏健派であった安藤だが、坂井直陸軍中尉から陸相官邸での話し合いの状況が帰順そして自決に傾きつつあることを宿営先の“幸楽”で聞くや「栗原ともあろう者が、そんなことで自決して事を終わらせようと発言するとはあまりにも軽率じゃないか！また皆がそれに同調するとは情けない。自決はいつでも出来るんだ。そんなことなら蹶起する必要はなかったのだ。俺は今日のことも十分に予想したうえで蹶起に踏み切ったのだ。今更決心を変更する意思などない！」と一喝した。

そして陸相官邸に高橋太郎陸軍少尉を伝令として送り、“安藤・坂井部隊出撃準備完了！”と断乎決戦の旨を伝えた。

これを聞くや、村中は安藤説得のため“幸楽”に走った。

「安藤、形勢は逆転した。もう自決する以外になくなったんだ。出撃などもってのほかだ！」という村中に対し…

「今になって何を言うんだ。村中さんともあろう人が軍幕僚のペテンに乗って自決するなんて。私の肚は決まっている。あんた方は自決なさい。私はあくまで戦う。」と一蹴された。

陸相官邸に立ち戻った村中は、この安藤の気概・気魄を伝えるや、士気は再び高まり大勢は再逆転した。

そして、各部隊の下士官兵に向けて檄文を発した。

午後4時、「昼食後ニ至リ形勢一変、寝返リセリ。将校以下下士官兵モ興奮狂気ノ如キ心ニアリ。奉勅命令ハ徹底セズ。」の一報を受け、戒嚴參謀長の安井藤治陸軍少将(当時)はこれまでの努力を水泡に帰した蹶起将校たちを“犬畜生”とまで罵り激怒した。

そこで香椎は第一師團の師團長である堀丈夫陸軍中将に対し、まず午後5時30分に「戒作命第十一號」を発令し、蹶起部隊の外部との交通、通信等を遮断、給養の途も閉ざすとともに、さらに午後6時に発令した「戒作命第十二號」では、午後11時をもって小藤の蹶起部隊に対する指揮権を解除することを下達し、この4時間という猶予の間に事態の再好転に一縷の望みを託した。

香椎と蹶起将校たちに共感の念を持ち何とか救ってやりたいと奔走する滿井佐吉陸軍中佐は、事ここに至ってもまだ肚の据わりかねている陸軍首脳部(陸軍大臣の川島義之陸軍大将、陸軍次官の古荘幹郎陸軍中将(当時)、軍務局長の今井清陸軍中将、參謀次長の杉山元陸軍中将(当時)、軍事參議官の代表として荒木貞夫、林銑十郎の両大将)に働きかけ、午後8時頃から戒嚴司令官室において協議を行い打開策を模索したが、香椎の慎重論に対し杉山は「全然不同意なり。二日間にわたり所属長官から懇切に諭示し、軍の長老もまた身を屈して説得せるにかかわらず、ついにこれに聴従するところなし。もはやこれ以上は軍紀維持上よりするも許し難し。また、陛下に対し奉りこの機に及んで昭和維新断行の勅語を賜うべくお願いするは恐懼に堪えず。統帥部としては断じて不同意なり。奉勅命令に示されたる通り兵力にて討伐せよ。」と激しく反対し、安井もまた“断乎攻撃すべし”とし、ついに香椎も両将の強硬意見に屈せざるを得ず“討伐断行”が決定した。

戒嚴參謀でもある石原莞爾陸軍大佐(当時)は即時攻撃開始を主張したが、既に帝都は夜の帳につつまれ、そのような状況で市街戦ともなれば両軍ともに徒らに死傷者を増やすだけであり、さすがに安井もこの極論は制し、攻撃は奉勅命令の趣旨の徹底した後に行うこととされ、午後8時に警備部隊(鎮圧軍)に対し、そのための攻撃準備は明29日午前5時までに完了すべしとの命令を下達した。

一方、午後10時過ぎに“幸楽”から山王ホテルに移動した安藤隊も、意気軒昂として来るべき決戦の備えに入っていた。

そして午後11時に“叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、依テ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス”とした「戒作命第十四號」がついに発令され、戦闘予想地域内の住民避難を行った後の午前9時を期して各叛乱部隊への討伐(攻撃)命令が下された。

包囲攻撃軍の軍隊区分

右翼隊：歩兵第五十七聯隊(第三大隊欠/佐倉)

中央隊：歩兵第二旅團(歩兵聯隊欠/東京)、歩兵學校教導隊、工兵第十四大隊(一中隊/水戸)

左翼隊：歩兵第一旅團(歩兵第一聯隊、第四十九聯隊二中隊欠)、歩兵第五十九連隊一大隊(宇都宮)、野砲兵中隊、工兵第一大隊(東京)

戦車隊：野戦第二聯隊

砲兵隊：野戦重砲兵中隊

予備隊：歩兵第一聯隊、歩兵第二聯隊第一大隊(水戸)、歩兵第三聯隊

いよいよ“皇軍相撃”が目前に迫るなか…ただゝ上官に従った挙句にこのままでは逆賊となってしまう下士官兵たちを憂い、その帰順に向け奔走した人物がいた。
それが陸軍省新聞班の大久保弘一陸軍少佐である。
大久保は、これまで将校ばかりに説得や勧告が行なわれてきたが、下士官兵に対し最後の手段として明朝を期して飛行機、戦車を使って勧告文のビラを撒いて原隊への帰隊を呼び掛けてみたいと、偕行社に詰めていた軍事參議官(林、真崎、阿部、荒木、西、植田、寺内)らに申し出た。
午前中いっぱいという猶予をもらった大久保は、すぐさま取って返し、同僚三人そして朝日新聞社の協力を得て、早朝までに3万枚のビラを刷った。

立川の飛行場を午前8時に飛び立った飛行機が三宅坂上空から、また叛乱部隊が立て籠る山王ホテル、各官邸周辺には戦車によってビラが撒かれた。
因みに、空から撒かれたビラは、そのほとんどが宮城(皇居)の堀に落ちたようで兵隊たちの手には渡らなかったようではあるが…

また叛乱部隊の者たちの多くが外部の様子を知るためラヂオを聴いているとのことで、最初は大久保自身が即興で語りかけようとしたようだが、いざマイクの前に座ると言葉が出てこない。
そこで、その場で手元にあった便箋に2分足らずで書きあげたのがこの「兵に告ぐ」の原稿だったとのことである。

そしてこの日、放送室に詰めていた日本放送協会のアナウンサーである中村茂が「私が放送しましょう」と申し出て…この歴史に残るアナウンスを担当した。

午前8時48分から戒嚴司令官(香椎)からの呼びかけとして、戒嚴司令部内の放送室からこの「兵に告ぐ」は繰り返し放送された。

鎮圧軍の総計は蹶起部隊の15倍以上という23,841名におよび、そのうえ戦車までもが投入され、その圧倒的な兵力差をもって十重二十重の討伐包囲網を敷かれては戦をしたところで到底勝ち目などなく、ましてや逆賊の汚名を着せられるともなれば、もはや帰順する他なかった。

それも蹶起部隊の約66%(1,027名)は、蹶起一ヶ月程前の1月10日に入隊したばかりの…銃器の使い方も儘ならぬ初年兵が占めていたとあっては尚更のことである。

午前9時半頃に警視庁方面の一部の部隊が帰順したとの第一報が入った後は、帰順投降、陣地撤退などの続報が次々と寄せられ、午後1時の段階では安藤隊159名を除く全蹶起部隊が帰順・撤退していた。

山王ホテルには直属の上司に当たる“歩三”第二大隊長の伊集院謙信陸軍少佐や(第一師團長)堀も安藤説得にやってきたが、安藤は昂然としてこれを拒否した。
正午を過ぎた頃から、部下の下士官兵らの帰隊を済ませた将校たちも山王ホテルにやってきて、彼らも安藤を諭した。
だが安藤は…「今になって自分だけが自決すれば、それで国民が救はれると思うか。兵が可哀相とは今さら何事か！兵が可哀相だから俺たちは立ち上がったのではないか。自分はこれだから最初蹶起に反対したのだ。しかし君たちがあくまで昭和維新の聖戦をするというから立ったのである。蹶起に踏み切ったのは今日の事態を十分に予測したうえで、どこまでもやり抜く決心がついたからである。君たちと袂を分かってでも我が中隊は最後の一兵になるまで戦い抜く…諸君、色々と世話になった。ここはもう戦場になるから用が済んだらそれぞれ安全な場所に引き上げてほしい。」旨を敢然と言い放ったという。
結局、礒部と村中だけが残った。
今や叛徒の名を蒙って銃を向けられるに至り、安藤は「私達は間違っておりました、聖明を蔽う重臣閣僚を仆すことによってて昭和維新が断行されるものと思っておりましたところ、吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。吾々は何等の野心なく、ただ陛下の御為に蹶起して導いたところ、戒厳令は昭和維新の戒厳令とはならず、かえって自分達を攻める為のものとなっている。」と後悔の念を述べたという。
午後2時半頃、陸相官邸から“野中大尉の拳銃自決”の報をもって伝令の将校がやってきた。
中隊長附き当番兵の前島清伍長勤務上等兵によると、安藤は空を見上げ、大きく呼吸をすると…兵隊たちを山王ホテル前に整列させ、「 26日頃よりこれまで皆よく闘ってくれた。戦いは勝ったのだ。最後まで頑張ったのは第六中隊だけだった。中隊長は心よりお礼を申し上げる。この団結をもってすれば天下無敵である。お前たちはこの際如何なる事があっても早まった事をしてはならぬ。お前たちの命は満州へ行くまでこの安藤が預っておく。陛下の御為めよく働いてくれ。中隊はこれより靖国神社を参拝して原隊へ帰るのだ。お前たちが聯隊に帰ると色々なことを言われるだろうが、皆の行動は正しかったのだから心配するな。聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。」と最後の訓示をしたという。

そして皆で中隊歌(昭和維新の歌)を唱おうと言った。
皆の無念の思いを込めた合唱が二番に移るなか、安藤はゆっくりと右方に移動し、隊列の後方に進み、取出した拳銃の銃口を左顎の下に当てて引き金を引いた。

仰向けに倒れた安藤の頭部から流れ出た血がコンクリートを赤く染めた。
だが、弾は左の顎下から顳顬上部にかけての盲管銃創で、皮膚と骨の間を絶妙に突き抜けていたため、東京第一衛戍病院に搬送され処置された安藤は一命を取り留めてしまう。
この安藤の自決未遂をもって…29日午後3時、戒嚴司令部は事件の終結を宣言した。

二・二六事件【後編】に続く…

二・二六事件【中編】