発熱も伴った。
3日くらい、食べ物食べられなくなった。
まず発症したとき、吐くわ下すわ、生き心地しなかった。
そんな渦中に、食べ物の映像ばかり脳裏をよぎった。
食べ物なんて想像したくもないのに、どんどんどんどん浮かんできて、さらに気持ち悪くなる。なんなんだ?いいかげんにしてくれ!食べ物なんて想像したくない、追い詰めないでくれ!!この状態から解放してくれ!!!!
もう、食べたくない!!食べられない!!
夜中に、言ってもなんともならないことを言って、マジギレしました。
誰にいってんだ。
わたしにだ。
食べたくないのに、押し寄せる不安感から逃げるように、快楽を求めるために、食べていた。
嫌なことを考えたら、チョコレートを食べる。
なーんかつまらない、ケーキ食べに行こう。
とりあえず小腹すいた、つまもう。
幸い、体重にはあまり影響しなかったけど、心からの望みで選択した“食べる行為”ではなかった。
食べたあとは一瞬の快楽を得るけど、すぐに罪悪感がわくので、消すために正当化するように、これは心からの望み!食べたいから食べた!って言い聞かせた。
だけど、ほんとは知ってたんだ。
ちゃんと向き合って。
わたしはこんなに食べたくない。
こんなに必要ない。
食べたいんじゃない。
食べたくないんだ。
わたしに必要なのは、食べることで一瞬の快楽を得ることではない。
わたしのこの声と、向き合うこと。
寂しいんだ。
ひとりではいられないんだ。
“ひとりぼっち”になると、思い出すんだ。
だから、少しずつ食べることで、幸せだと錯覚を起こす必要があるんだ。
それくらいしか、わたしには感じる能力はない。
感じていると思っていたけど、感じようとしていたか、これを幸せというのだろうと思考が定義付けしたものたちのフェイクだろうな。
わたしは、ずっと、家族のお世話係だった。
みんなが幸せそうだったら、笑顔にできたら、わたしがやったこと、そこにいたことは大成功。
でも、それができなければ、わたしはダメだ。
わたしがやらなきゃ、ダメなんだ。
お父さんが一番で、弟が二番で、二人が喜んだら、お母さんは嬉しいんだ。わたしは、良かったねー!って隣で見てる。
たまには、それが寂しくて拗ねてなにかをすると、お母さんは困ってめんどくさそうにするか、ワガママ!って叱って、反抗したらそのまま外に出されるんだ。
時には、帰ってきたお父さんに報告して、説教の時間が始まる。
みんなが楽しそうにしていたら、わたしはそれを見ていられる。安心していられる。
みんなを喜ばせたら、笑顔を向けてもらえるから、わたしの願いなんて、みんなが喜んで笑顔でいてくれますように以外、浮かばない。
むしろ、そうであってもらわないと、わたしに無言の圧力…飛び火がくるんだよ。
だから、正直、わたしのやりたいことや感覚なんて優先してる場合じゃないんだよ。周りの喜びが先なんだよ。
周りの喜びが先なのは、生きるためだ。
胃腸炎で、食べられなくなり感覚が立ってきたのか、、、こんなことを思い出した。
自分の感覚に従うとか、自分の気持ちを大切にすることに根本でブロックがあると察していたのだけど、見たくない部分はここだった。
わたしは、家族のなかでピエロだった。
やりたくもないピエロを一生懸命演じた。
時々ストライキを起こすと、生意気な!ピエロのくせに主張か!!と権力をかざされる。
バカの一つ覚えみたいに、学校でもどこでもピエロでいた。
全然面白くないけど、希望や期待が打ち砕かれるくらいなら、適当にピエロ演じてればいい。
あー。
根幹、えぐいっっっっ!!!!!!
胃腸炎の産物の巻、でした