2つの幻想即興曲  ショパン「幻想即興曲」 | 『~鏡花水月 ~』

『~鏡花水月 ~』

鏡に映る花の如くに美しく

みなもの月の如くに脆く儚く

この世は幻 森羅万象は夢の中

我は心のままに詩を詠み続け

毎読芳恩!!

こんにちは、「鏡花水月」 の紫雨(むらさめ)でございます。
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~ これは伝説である!
 私の妄想の産物から派生して生まれた異世界への扉。
  扉へ手を伸ばし異世界の壮大な物語へと旅立とう ~


ショパンが生涯向かい合ったもの

ブログタイトル 日本人が特に好きな作曲家 
「フレデリック・フランソワ・ショパン」
私もそんな中の一人であるが・・・

ショパンのファンの多くは 彼の曲のみならず
彼がどんな人生を歩み 考え悩み 
どんな人柄・性格・人間性だったのか
そして何を目指したのか知りたくなるのは
当然の欲求というところだろう

彼自身が生きていた時代を動かし 
永い時代を経て なお時代をも動かし続けるほどの才能を持ちながら
わずか39年という短い人生を駆け抜けた作曲家

「ピアノの神」と崇められても 彼自身は神ではなく我々と同じ人間である
嬉しいときには笑い 悲しい時には泣く 怒りに身を任せる時だってある
そんな一人の人間としての ショパンの原点の部分に少しだけ触れていきたい


ブログタイトル ショパンは父親はバイオリン
母親はピアノというように
音楽好きの両親の元 
3姉妹に1人の男児として生まれた

彼がまだ物心つかない幼児期 
ピアノの音が聞こえてくると
何故か泣きだしたという 
時にひきつけを起こしたように
なることもあったという

しかしある時からであった 
ピアノに興味を持ち始めピアノの下を陣取るほどになっていった
ショパンの中にピアノの神が舞い降りた瞬間である
ピアノの才能は早熟に発揮され 神童的な存在となる

彼の才能はやがてピアノだけでなく 
その他漫画や芝居などの才能も開花されていった
普通教育の学校つまり普通高校というか普通中学に進学しているのだが 
歴史や文学様々なものに興味を持ち 頭もよく成績もよかったといわれている
そしてユウーモラスに 漫画や芝居など披露して 
ショパンはクラスの人気者であったという

ブログタイトル 芝居の演技の才能は特に優れていて 
「文芸娯楽協会」を立ち上げ活躍していた
その芝居・演技は光るものがあり

ショパン家と親交のあった俳優の知り合いは
彼をその道の世界 
つまり「文芸の世界」で
育てていきたいと考えていたほどであったという



そんなショパンだったが普通学校を卒業して 
正式に音楽の学校に進学していくのだが
その後彼の人生に 潜在的にでも影響を与える出来事が起きる

慕っていた姉の死である さらに続いて親友の死
共に後にショパンを蝕んだ結核が原因であったという
ショパンは非常にショックを受けるとともに

ブログタイトル 幼い頃から身体が弱く痩せ
薬にも頼っていたショパンにとって
「自分の死」についても
意識をせざるを得なくなっていった
心の奥底では 「死の恐怖」 との
葛藤があったのではなかったと思うのである


大人になってからの彼は オッシャレで社交的な顔と共に
神経質で保守的な本心を人には見せない大人になっていったという

彼は 感受性がとても強く 
時に人の理解を超えた行動に出ることもあったといわれている
精神の専門家によってはショパンは 
感受性が強すぎる とある症候群 
脳の特定分野の活動が特殊ではとなかったかと考えられる とも言われている


幻の幻想即興曲

ショパンの作品で人々のなかで好きな曲の最上位の方にランクされるであろう
「幻想即興曲」 この一つの即興曲について触れてみたい

ブログタイトル ショパンは「即興演奏」が得意だったという

そうした即興演奏自体がまるで出来上がった曲を
弾いているかのようにも見えたという

ショパンは即興演奏によってすでに出来上がった曲のように弾けたとしても
それを曲としてすぐに楽譜にすることはなかったといわれている

ショパンの曲造りは丁寧であり浮かんできた曲においても
何度か修正しながら音や 強弱 テンポ などを洗練させ
より完成度の高いものにしていく造り方をしたという
そして ショパンの意思の反映された楽譜しか出版しなかったという

ショパンの即興曲は 即興演奏的なものというよりまた別に
自由に作られた作品群の音楽としての意味合いが大きかった

「即興曲集」として作られたものには3曲正式には4曲あった
一番最初に作られながらも「遺作」となった4番の即興曲に続き
1番、2番、3番の順に曲が作られた

ブログタイトル 「幻想即興曲」はその4番の即興曲にあたり
生前には出版されることはなく
ショパンの死後「遺作」として発表された
ある理由のために・・・


ショパンが出版しなかった理由については諸説あり 
・1835年に「デステ男爵夫人」という人に個人的に作曲し出版の意思がなかった
・曲を意識的か無意識なのか 作曲家のモシュレスの作曲した即興曲や
 ベートーベンの月光ソナタの3楽章に似たところがあって出版しにくかった
・曲の出来に満足できずお蔵入りにした・・・ など

中で一番信憑性があるのが 「デステ男爵夫人」に贈ったというものだろうか
ショパンは最初作られたこの即興曲に何度か手を加え
そして完成したものを贈ったといわれている

ショパンは 友人といっていいのか弟子というべきか
ショパンの元で楽譜の清書や身の回りのことをしていた
音楽家でもあった 「ユリアン・フォンタナ」 にある頼み事をした

ブログタイトル 「自分が死んだら 出版しなかった楽譜は
すべて焼いて処分して欲しい」と

やがてショパンは病魔に蝕まれこの世を去った


そして「フォンタナ」はショパンの家族から出版されなかった自筆譜を渡された
しかし 「フォンタナ」はショパンとの生前の約束であったはずの
自筆譜を燃やして処分するという処理をしなったのであった

渡された自筆譜の中には 今現在よく知られている曲もいくつか含まれていた
フォンタナはそんな楽譜の中から20数曲ほど選び勝手に出版していったのである

その中の1曲に4番目の即興曲「幻想即興曲」が含まれていた
その自筆譜は音符のみの いわばショパン的に見れば
最初のインスピレーションでの音楽 曲として進化させるべき楽譜であった

ブログタイトル 「フォンタナ」はその楽譜に対して
個人的に強弱や記号などを大きく書き加えた
さらに曲に「幻想」という名を付けて
1855年に発表出版した

こうして「幻想即興曲」は世間に誕生したのである


ショパンの楽譜に勝手に個人的な味付けをしたことに対して
ショパンの音楽を正しく伝えていないと批判の声も上がったが
ショパンの消え去るはずの作品を世に出した功績は大きかった
フォンタナの味付けは それはそれで悪いものではないと思われる

こうして出版された「幻想即興曲」は 
フォンタナ版「幻想即興曲」としてその後 演奏される主流になっていった


時代は流れ 1962年のことである 
20世紀の巨木的ピアニスト「アルトゥール・ルービンシュタイン」
彼が同じ即興曲4番の別の自筆譜を発見する

その楽譜には贈った相手の名前(デステ夫人)が記された上に
音の変更に加え 強弱や記号など演奏指示が細かく書き込まれており

ブログタイトル 1834年に作った初稿から変更を加えながら
1年後の1835年に完成された決定稿と判断され
ルービンシュタイン版「幻想即興曲」と呼ばれ 
俗に大雑把に原典版「幻想即興曲」ともいわれている

正式にはショパンの決定稿「幻想即興曲」は
まだあまり聞く機会は少ないが 
ルービンシュタイン版の「幻想即興曲」の方が完成した本来の姿である

「フォンタナ」が ショパンの頼み通りに処分していたとしたら
幻想即興曲やその他のいくつかの曲も存在しなかったのを想うと 
運命のいたずらのようなものさえ感じさせる

納得いかない部分があると出版を許さなかったショパン
その廃棄されたであろう数多くの曲の中にも 
現代において人気が出たであろう曲がいくつかあったのかもしれない・・・


それでは 一般的に演奏されている フォンタナ版「幻想即興曲」と
ルービンシュタイン自身による演奏での ルービンシュタイン版「幻想即興曲」
2曲を聴いていきましょう


・フォンタナ版「幻想即興曲」




・ルービンシュタイン版「幻想即興曲」



「最後まで読んで頂き感謝 心よりの感謝を込めて・・・
 迷える子羊に 神のご加護があらんことを・・・ 」 合掌