私は物心ついた時から、舞台を観る環境にあった。

 

そう言うと、

かっこ良く聞こえるかもしれないが、

 

一体、それって何なのか。

 

 

ちょうどその時代に、

福岡を発祥として、

「お母さんたちが、子どもたちに生の舞台を見せたい」

という活動が起こり、

それが、全国各地で運動のようにおそらく広がり、

私の母親は、3番目の私が生まれる時に教師を辞め、

それを岐阜の田舎の自宅の一角で始めた。

 

その当時は、

おそらく、一番時代とマッチしていた時で、

小さな小さな田舎町で、

確か、会員数は350人くらいいた気がする。

 

2ヶ月に1回くらいは、地元の大きなホールに劇団を呼んで観ていた。

 

ただ、

私が思春期と呼ばれる年頃になって、

世間の何かと違う気がして、参加しなくなった記憶がある。

 

なんとなく、

世の中の普通の流れに身を任さない

社会運動的な感じがしたのかな。

 

 

「みんなが集まる場所」

というよりも、

「一部の興味のある人たちが集まる場所」

という感じがした。

 

 

また、話は脱線するが、

父親は父親で、また、おそらく一生懸命な運動家で

教師でありながら教育現場に常に疑問を持ち、国会に向かう人であった。

子ども心に、長いものに巻かれない生き方をしている人だという認識をしていた。

子どもたちを心から愛し、

教育現場に真剣に向き合っていたと思う。

 

戦争反対とか、

ダム建設反対とか、

大きな権力に疑問を持ち、いつも何かと闘っているように見えた。

 

 

でも、そんな背中を見ていて感じていたこと。

 

 

大きな力に反発して、

どれだけの結果が出せるのだろうか、

と。。

 

 

最終的には平和を願っている。

 

でも、その平和は、

反対することで、いつ訪れてくれるんだろうと思ってしまった。

 

 

 

もしかすると、

何かを成し遂げようとしている人たちも、

それに反対している人たちも、

みんなが、自分が思う平和を願っているのかもしれない。

 

だとしたら、

まずは、自分が平和を感じること。

 

自分が感じる平和。

自分が感じる幸せ。

 

 

そうして満たされていたら、

周りに伝染していくんじゃないかと。

 

自分が満たされて始めて周りに与えられるのではないかと。

 

 

きっと、

私は、

大きな勢力に反発をする親を見て育っている環境も大きくて、

なんか、負けてるようで、なんか悔しくて、

 

 

 

大きいも小さいも、

上も下も、

強いも弱いも関係なく、

メジャーもマイナーも関係のない

「魂」の世界が一番何も争うものがなくていいなと思ったのかな。

 

 

魂はみんな一緒。

 

 

上も下もない。

強いも弱いもない。

大きいも小さいもない。

 

見えないものだから、面白い。

 

 

結局、何が言いたいかというと、

きっと、

おそらく、

私と切っても切れない記憶は「運動」で、

それにいい意味でも悪い意味でも反発しており、

逃げられない。

 

 

少数派なんだけど、

垣根を作りたくなく、

誰もが親しめて、誰にとっても敷居が高くなく、

偏っているのかもしれないのだけど、

偏っていないものでありたい。

 

 

 

自分が発信する場所は、そんな場所でありたい。

 

 

 

どんな考えを持っている人たちでも親しみやすく、

普遍的で明るくてオープンな場所。

 

 

 

魂の話だけど、

だれもがそんなことを普通に話せる世の中になったら

すごく楽しいだろうな。

 

 

 

~ 明るい物事が好き ~

 

愛を込めて

ピーラー・ピロコキラキラ