peedyのブログ -37ページ目

収まらぬ癖

夏の疲れが肌にでちゃってるわんいやん。

昨日、花火大会から帰ったあと、深夜にお風呂にステーイしてたら(私の風呂は長い)、ぐらぐらと地が揺らぎ始めた。

いやいや、全裸で避難だけはいや、全裸で潰されるのもいや、と
大急ぎで浴室から飛び出た。

幸いあまり大きい揺れにはならなかったようだ、
ああ、全裸で大事にいたらなくてよかった。

ここのところ地震の数がやたらと多い。
なまずくんがいうところの「関東大地震がいつ来てもおかしくない」状況らしいので、部屋にある避難させるべきものを見渡したが、
特段これといって強く残したいものはひとつもなかった。

これだけ、ものに囲まれている生活を送っているのにも関わらず。
私は物欲が強いほうだが、手に入れてしまえばそのものに対して
何の興味もなくなってしまう。
執着といものがまったくない。
消費のループから抜け出せない。

それって自分の性格や考え方のいろんなことにあてはまるよなあ・・
なんて考えながら、考えすぎると暗くなりそうだったので、
浴室のドアを半開きにしてごしごしと頭を洗い始めた。




やり直しより、いつも新しく始めるほうを選んでしまうの。

たとえば

泣けてしょうがない夜に
黙ってなにもなかった顔をしたりだとか


たとえば
他人の優しさを優しさだと受け止められず
自分の偽善ぶりにすべて見失ったりだとか


たとえば
それをしないほうがいいのだよときみが言うなら


喜んでこの小さな反抗を



打ち上げて
あの花火のように

終わろう
この一瞬の間に





耐えられない存在の軽さ

自分を他人に話すということが殆どないので、
どんな問題が振りかかってきてもひとりだけで消化しようとするクセがある。

なにがあっても動じないんだね、といろんな人に驚かれてきたけれど、いつでも動じないように自分に厳しく念じてるだけで、
渦巻いている感情をコントロールしているだけに過ぎない。
いつのまにか度が過ぎたようだ。



文章では必要がないほど自分の内向に向かって書いているけれど、
肝心のことはのらりくらりと意図的に外している。
言葉に嘘はないけれど全てが自分自身なわけでもない。
「大げさすぎ」
だからといって誰しもが書けるわけではないから書いている。


長く歩くために久しぶりに履いたスニーカーでの帰り道、東京圏内で発行されているフリーペーパーを見つけた。
ページを開くと、春に写真を撮ってもらったA嬢の連載が載っていた。
おおきく名前も載っていた。
そのページだけが、彼女らしい雰囲気で溢れていた。
好きなことをこつこつと続けていくこと。好きなことにこだわること。
おとなしく微笑む彼女の存在は、それこそが大事なことなんだよ、と優しくきつく教えてくれる気がする。
がんばろう。


先週借りて来たDVDをやっぱり観ずに一週間がすぎそうなので、
これからがんばって観ようと思う。
映画を一本みる集中力なんて残っているのか怪しいところだけれども。
選んだのは「存在の耐えられない軽さ」ではもちろんなく、
「しあわせになるためのイタリア語講座」。
舞台がアントワープだったから。それだけ。
映画を選ぶのは最近とても一苦労で、昔に好んでいたヨーロッパ映画は
目が疲れすぎて、アングラ映画は間を読むのが面倒くさく、
ハリウッドはスピードが速すぎてまったくついていけていない。

好きなテーマは一貫してて、「子供・ファミリー・女の友情」。
人の他愛ない生活が好き。

「バッド・エデュケイション」は忘れずに観にいこう。