アンチパレードな自分だけれど、

まぁ大切な人達が、祭りがパレードが。と言っていると、そうなんですねぇ。と半笑いの自分を感じてしまう。けれども、まぁいいか。


ま、なんでもいいわ。もう。

そんな気持ちをポジティブへと踏ん張る感じ。


考えてみれば、

私たちは、人生という歩をどこかしらで、

パレードしてるんだろう。

それは例えば同じ演者じゃなくても、

それは例えば同じ歩道ではなくても、

 

時間軸の中、24時間というパレードを踊っていて、そこで膝抱えてる暇なんて、

普通はないんだ、、、たまにはある。

親が死んだ時とかそんな時はやっぱり動けなくなる。


私はまぁまぁ普通に暮らしていて、

そこに誇れるものなんて何一つないけど、

頑張って生きてきた誇りくらいはある。

テクテク毎日歩いている時間の中で、

頭の上をカラスが飛ぶ。

カラスが詩人なら私の事を見て何を歌うんだろう。なんてたまに思ったりする。

毎日毎日お決まりの時間に歩いてて、

たまにジロッと見ていやがる、、、なんて、

歌でも書かないかなぁ。なんて思う。


アンチパレード。ではあるけれど、

頭の上を飛んでるぶんには、

なんだかまぁ悪いことじゃないんだろう、、、


芸術の小森にいる佐野元春さん、宮沢さん。

今だから言えるけれど、

佐野元春さんはともかく、ミヤはどうしてこうもネガティブなことを書くんだろう、、なんて、

実は思っていた時期が多くて、

芸術家って、なんだか湿地帯みたいだな!ミスチルといい!と、聴いてたら、

全身ずぶ濡れ。みたいな気持ちにこっちまでなってしまって、面倒くさかった。


平和。やら、

環境。やら、

ポリシー。やら、

なくしてしまったあとにもがく向上心。やら、

いくらでもあるじゃん!

もっとより良くなれる小さな光なんて。

私なんてどうなるんだ!いい加減にしろ!

なんて、言いたくなることも沢山あった。

ミスチルさんのアートじゃないけど、

彼女を殴ったりしたのも愛情故だと。

桜井くんならまぁ芸術家だから許してあげていいけれど、他の人間なら絶対許さん。と、

今でも思っている。芸術には情け無いくらいに寛容なんだ、私の場合。

例え犯罪者でもだ!もう断言してもいい。


パレードの定義はそれぞれ。


言葉は悪いけれど、

セレブリティにはセレブリティのパレードが、

そこへ集まる人達が、

私は私で、やっぱり大好きな絵画やYOKOの思想ばっかり追いかけてるパレードというよりは、

『競歩』的なものが、

本物の芸術家には彼らなりのパレードが。

それぞれにあるわけで、

何も同じ流れじゃなくても、

パレードはパレードだ。


乾いた世界が嫌いなんだ、とにかく。

想像力があれば、乗り越えられるものが世界中多すぎる。イマジンの欠如とも言える。


私は芸術の意味をこれ以上なくしたくない。

そんな強い強い思いがある。

生きる芸術の申し子になってやる!

くらいの意地が本当に自分でも怖いくらいだ。

私を幼少期から育ててくれた芸術に恩返しの気持ちで、やり通して死にたい。

 

鵜飼の鵜でも、もはや構わん。とすら思っている。あんた達が忙しいなら、

私は知見を広げようじゃないの!

そんな感じ。


振り返っても誰もいなくても、

頑張って生きていくのみだ。


恋愛だの熱情だの絆だの、

見えないものは尊いし、なんかかっこいいけれど、形のないものに名前つけて、

さもありき。にしている私たち人間が、

その言葉の意味を超える感情を持続するには、

本当に騙し騙しの時もあれば、

純粋にその思いへ流れる時もあれば、

美しく思える感情というものは、

根性がいるんです。私に言わせれば。


おしゃれは我慢。とはよく言ったもんだよ、、

といつも思う。


ネガティブな嫉妬憎悪嫌悪差別。

などなどの感情には、

根性はいらないんです。

人間なんて、ぼやっとしてたら、

そんな感情なんて、『おかき』くらいの手軽さで手に出来る。


私は単独で、それでも人生というパレードの一員だ。それなら、

絵画、芸術をこよなく愛していく、

そんなハイセンスな人生をテクテクとやっていく。お勉強も勿論していく。

鵜飼いの鵜匠はいないけど、

勝手に佐野さんだの宮沢さんに念を飛ばす。


きっと私の方が暇に違いない。

だから私がお勉強をして、念でも飛ばしてやろうじゃないの。


そんな気分だ。


グタ、、グダグダと、

やっぱりあの人もパレード好きか、、、

と、諦観の虚脱感に包まれていた今日だけれど、


ちゃんと立ち直れる、

私は本当に雑草魂だ、、、、、


がんばろう。