自分で自分を分析する機会が、
人生の中では幾度かはある。
私の感受性、内省を形成してきたものは、
間違いなく音楽達。そして芸術。
人と話していても、ん?と思うこと。
反抗期、夢を持っていた時代、
いつでも私は音楽ばかり聴いていた。
中島みゆきさん、佐野元春さん達、
ニューミュージック世代。
言葉という言葉を拾いたくて、沢山の音楽を聴きながら生きてきたと思う。
けれど最近スッパリやめてしまった。
もう戻らないと決めてしまった。
音楽業界の諸事情やら、あれやこれやと見えすぎて楽しめなくなってきたことも大きくて、
ストレスになるくらいなら、やめてしまおう!
そう感じたから。
時代のせいなのか、人を責める言葉も多く散見されて、心がついていけなくなってしまった。
ストレス解消には確かに良いけれど、
その勢いのままに心を走らせると癖になる、、
そういうことがちょっと耐えられる年齢ではなくなったんだろうと思う。
あー水源がなくなったかもなぁ。
なんて思いながら、少しぼんやりした時間を過ごす。心をごまかすことが音楽には出来る。
歌ってるうちにスッキリする。みたいな、、、
でも考えていることの本質や、無鉄砲に発散されていく気持ちは誰かの言葉にのっかって、
何か大切なことを忘れてしまう、、、
そんな気持ちになることがある。
忘れてしまいそうになる本質は何かもっと大切なこと。というわけで、やめてしまって、
佐野元春さんと宮沢さんだけの日本語を聴く。
聴き慣れて聴き慣れて、言葉に慣れて、
空気みたいになって、、、それでも、
『良い知恵の上にある言葉』をチョイスしたかった。
絵画の勉強も、芸術家オノヨーコさんの作品も、
最近は楽器だけの演奏家達の芸術も、
ちゃんと心に留めることが出来て嬉しい。
今までは、ノリで生きていたし、
ノリで心に留めていたのかもしれない。
今日、ローマの文明の番組を見る。
ローマも文明が滅びた歴史がある。
文明なんていつか何かのタイミングで滅びる。
私は文明じゃないけれど、
自分の中の文明が終わった、終わりたい、
そんな感覚を最近とても持っていたから、
なんだかテレビを見ていて、
『終わればいい』と感じてしまう。
だだっ広く広がる文明はなんだか、だらしなくて、なんだか空虚で、時間が楽しければ、
その空白が埋まればそれでいい。みたいな、
そんな感じに似てる。自分のノリで生きてノリで拾ってきた心ととても似ている。
ローマの文明は滅びた。
でも、とっても素敵な建築物を知った。
18世紀の大哲学者ジャン=ジャック・ルソーはこの水道橋に圧倒されたという、
ポン・デュ・ガール、ローマの水道橋だ。
アーチ状のその橋は豊かな水源を何キロも流して、水の恵みを必要な場所へ誘うという。
きれいで豊かな水をふんだんに使うことこそ贅沢とされていた古代ローマ文化。
それは同時に疫病の蔓延を防ぎ、「ローマの平和」を維持することに貢献した。
なんて素敵なんだろう。
自分がそんな心になれたら、もっと素敵だけど、
私はまだまだ未熟なので、
怒ったり愚痴ったり悪口もたまには言ったりしながら生きている。
けれど、その昔、まだとても若かった子供の頃、
自分の心が壁にぶち当たっても腐らずに生きてこられたのは、間違いなく、水のような芸術達のおかげ。少しどころか随分年齢を重ねて、
ノリで水を飲むことが出来なくなった今、
豊かな水を蓄えるために、
このローマの水道橋ポン・デュ・ガールに流れる、水をチョイスする。
そんなイメージで心を流していけたら、
もっと豊かなはずだよなぁ。なんて、
そんなことを考える。
水はいくらでもある。
けれど、水はチョイスしないと原形であるカラーごと失ってしまう。そんな時代の早さが、
もうついていけないんだ、きっと。
なんて美しい海外の橋だろうか、、、、、
文明が滅びたのち、この橋を発見したとテレビでは言っていたけれど、
本当に素朴で美しい景色の中、
この橋は長く長く水を運んでいた。
素敵だなぁ。と惚れ惚れした。
海外、ローマっていいなぁ。
なんて羨ましくなる。
日本のイメージは便利だけど、水道ひねればタンクに詰まっている水。
美しい湧き水ですら、実に地味だ。
日の目を見ない場所でシュクシュクと湧き水となって溢れていく。
ローマは美しい美しい橋である。
水源を保つものがアーチ状の橋なんて、
素敵すぎる。
私に限らず、
沢山の人達の心には水源がある。
もう聴かないにしても、
例えばドリカムだとかミスチルだとか、
藤井フミヤさんだとか、
自分はこの人生で聴くことはないけれども、
その創作家がファンの人達に流したい水源を、
自分の世界観だけで作っていかれるんだろう。
この国のビックアーティスト達の言葉も、
水源にしている多くの人達がいる。
良い水。だといいな。と願う。
豊かな水。だといいな。と願う。
まぁ私には用事がないけれど。
この人生で触ることはないし聴くこともない、
勿論、あちらサイドから関わられるなんてこともない。当然だけれども。
私は2人の日本人の芸術家の言葉を音楽を、
時折チョイスして、その個性もベクトルも、
全く異なるものも、自分の心の水にしたい。
絵画もその歴史も活字達もYOKOも、、、、、
戦う為の水。はもういらない。
充分に大人世代。戦う要素はほぼない。
思春期でもなければ、
学校や親や世間に矛盾を吠える世代でもなく、
そんなシーンではもう自分なりに戦えるようになっている、、、
もしくは逃げる術もわかっている。
沖縄。という島が翻弄され続けているのは、
沢山の権力が未だにあの島を牛耳ろうとしている政治背景もあるんだろう。
自分のように個人。ではないぶん、ややこしい。
私は個人なので、こうやってどうであれ、
拒絶をすることが出来る。
それを踏み越えるものなんて⭕️⭕️ハラ。
パワハラ、モラハラ、セクハラの類であって、
この時代、犯罪だ。
戦うための水。ではなく、
豊かな水。になるために、
私が選ぶ芸術達が多彩なカラーで、多彩な触感であり続けてくれたら、
もう言うことなんてないなぁ。
全ての道はローマに通ず。
改めて聞くと、良い言葉だ。
いいなぁ。ローマ。