私が今みているのは、

明らかに『天国の扉』だけだ。


世の中にある、

衝動自殺や悩みに悩んだ結果の死、

自分の周りだけでも、とても多い。

去年はいとこが海へ投身自殺している。

親戚には首吊りもいる。

優秀な公務員の明るい奥様も、

保護者知り合いの旦那さんも、

好きだったミュージシャンも、

竹内結子ちゃんも三浦春馬くんもダチョウさんも。みんなそれぞれに何かを抱えて、

飛び立たれた。

もしかしたら、亡くなる寸前まで、

軽口の刃を笑って聞いていたのかもしれない。

少しずつ、心は死へ焦がれていく。

私もそうだ。当時も死ね死ねの嵐。

当時は嫌がらせもプラスされていた。

今は嫌がらせこそなくても、

この世が絶望的であることを、

私を覚悟した人間であっても、

やってくれちゃうのが、この日本という国の正体なんだと知る。


きむらはなちゃん、りゅうちぇるくん。

死ぬ寸前までこの国ホントに酷いんだな。

そう感じた。


私は金銭やネタになることを、全力で、

今からも拒んでいく。

絶対に。

その食物連鎖というやつを全力で否定してやる。

それが、自殺という形での私なりの抗議だ。

一般社会の人間へもそう。

好奇心というものが、どれだけ人を傷つけるか、

傷つけてきたか。


そのことを全力で抗議する形が、

私の自殺という形だ。


これはもう変えない。

絶対に。


誰にも埋められない穴のようなものを抱えて。


そういうことなんだ。

例え、伴侶がいようが知人友人の類がいようが、

どうしても埋められない穴のようなものがある。


私は機嫌が悪くなると、

作品を発表することを生業としている人達に、

八つ当たりたくなる。

そんなに偉そうに夢だの愛だの言って叫んでるわりに、近い知り合い自殺してるじゃん。


本当にそう思うからだ。


でも、どこかでわかってる。

誰であっても、例え誰かといても、

もう埋められない穴がある。


言ってみれば、

簡単に崩れる蝶番のようなものだ。

私にもある。

それをガタンガタンとされることで、

プツンと切れる瞬間がある。

もういいや。

そんな呟きに似てる。


きっと有名な人達で死んでしまった人達の呟きは、もういいや。だったんじゃないの?

そんな憶測を立てもする。

酔っ払ってしらねーこんな世界。

そうなった人達もいるだろう。


そんなガタガタしてる扉は、

ぶっ壊してやれ!とやれば、

その時点で死ぬ人間もいる。

そんな蝶番は外して他のを。

その言葉でもっと死にたくなることもある。


難しいんだ、、、

人それぞれの心の穴のようなものは。


わかってほしい。はとうになくなっていて、

聞いてほしい。もなくなっていて、

もういいや。しか出てこない、

諦める感情を私は嫌というほど知っている。


変わらず笑い、変わらず求められる人を一日やりきり、時に普通に八つ当たりされ、

時に奢り奢られ、普通の日常の中で、

心を隠していくことすら、もう習慣となり、


ハタと、この、もういいや。が来る。


気付けるわけはないのである。

そんな時間の中で、死ぬことへの意思を固めていく。そんな感じだ。


それはそうと、


私はそうは言っても、高齢の母に骨を拾わせるなんて親不孝はさすがに出来ないことと、

亡くなった父が、浅い吐息ほどしか出来ない状態で、私の手を握ってじーっと目を見ていた時間。

おかあさんを頼むぞ。だとか、

そんなことを言いたかったのかな。なんて、

受け取ってしまったものだから、

母を見送ってから。だな、、、と、

そう考えている。


なので、やたら冷静だし、

死ぬ時はこうしよう。ああしよう。の方が、

今は頭を埋めている。


でも、沢山の方が本当に自死をされていて、

やめなよ、、なんて、

私は言えない。

そんなの自由だからだ。


周りの人が悲しむよ。

もしかしたら周りの人に気を使いまくって、

それ以上に周りの心に沿わないといけないのか?

死にたいくらい、疲れていたらどうするんだろう。実際、私にも友人の類はいても、

あちらもそうだろうけれど、

心を完全解放なんてしていない。


死ぬことも自由だよ。と思うと同時に、

練炭だの、

自殺サイトだの、

そんなのじゃなくて、


かっこよく散りません?


そんなご提言をしたい気分だ。


私は一曲死ぬ寸前にじっくり聴く。

そして睡眠薬を飲む。

うつらうつらと綺麗な場所で、

眠たくなっていく。

気がついてもらったときには、

綺麗な洋服のままで化粧をして、

授業中の居眠りのような姿で発見される。

死ぬ寸前まで聞いてる音楽は島唄にしよう。

由布岳と三線は合いそうだ。

鳥も山々も美しい。

夜中へ霊園へ行けば、朝霧の中で、

私の死体は発見される。


美しい。


例えば、今、死にたくて死にたくて仕方ない人達。どうせ死ぬんなら、

かっこよくセルフプロデュースをしてほしい。


ワインをおしゃれに飲んで、

好きだった音楽を聞いて、

この世界で愛せたものを、愛でながら、

あの世へ旅立つ。


武士のようでいいじゃないか。


自殺がダメだ、どうだと騒ぐけれど、

じゃあ武士はどうなんだ。


切腹してたろ。

美しく散るために。


私は2度も大切な思いをゲームのようにされて、

またがんばりまぁす。を、

もうしないと決めたんだ。

エンディングが必要だと本気で判断した。


何度も何度も同じ傷を思うのであれば、

もう忘れることは2度とないだろう。

むしろ、深く思い出してしまった。


それなら、今の心は、

その思い出の中で、キラリと光るものだけ、

それだけを抱えて、死のうと、

自分なりにセルフプロデュースしたんだ。


この答えだけは、

絶対に邪魔させない。


クレージーでも頭おかしくても構わない。

私はそれくらい人生を投げ出した思いがある。


そんな気持ちなんだ、今は。


死ぬことはもう怖くない。

全然ない。

息子も大きくなっちゃったし。

昔、辛くて辛くて自殺未遂したときは、

遺書を書いたりしたけれど、

今は、もうこれは死のう!と、

いたって前向きなプロデュース。

遺書も書かない。まだ先だしね。


人間がどこまで愚かなのかを、

私はとても知ってしまったけれど、

それはそれとして、

自分はきちんと美学を貫こうと思う。


歌やドラマ達が、

希望を夢を。とやっているなら、

私は真逆へいこう。


死ぬなら美学を。だ。


誰に何を言われても、

自害したあの戦国時代のように。


なかなか飛び降りやら海への投身自殺だのは、

痛いし、寒いし、

やだな。なんて、のんびり考えている。

水への投身は、身体が膨らみすぎるから、

すごいことになるらしいし。


ちょっとそれは嫌なのだ。


天国への扉へ向けて、

夢と美学を考えていきたい。