ストレスが溜まっていたのか、
1人の車の中でずっとぼやく。
そうでもしないともたないときがある。
毎日毎日会社のパソコンに出てきた吉川晃司さんも今日、やっと消えてくれた。
世界を驚愕させたニュース吉川晃司
真実をあなたがお確かめください吉川晃司
新しい事業はじめました吉川晃司
この人、どこまでも追い詰めろ
生きたまま焼かれろ
って歌ってたなぁ。
広島出身かぁ、この街広島に引っ越してきてからいい思い出あんまりないな。
嫌がらせばっかりだったし、殺されかかったし。
そんな色々で吉川晃司さんが約3週間弱、
会社のパソコンでそんな文言と共に出てくる状況が、少し、しんどかったのだ。
最近、芸術について考える。
絵画が好きだから沢山の絵を見る。
私はモネが好きだけれど、
ルネッサンス絵画は、
首を切られていたり、
ドロドロに苦しそうな絵画も多い。
芸術に携わっている人達が、
愛や命や天使ではなく、
殺す、苦しむ、もがく、ドロドロになればなるほど、一足飛びに頂点のような芸術へ辿りつくことに焦がれるのも無理はないんだろうな、、、、
守るだの愛してるだの恋だの人間愛だの描き尽くした人達が、次に望むものは、
頂点、それは死だ。
死は悲しみに満ちている、
苦しみも頂点に近い、、、、
凡人の私からは、なぜそんなに酷いことを。
そう感じても、
人が死ぬ。そのことに芸術を見出したくて、
壊したくて、苦しんでほしくて、
仕方ない衝動を少し理解してしまう、、、、
そうやって、死を求めたあと、
その先には何を描きたくなるんだろう、、、
私は芸術家じゃないからわからない。
自分が苦しめばいいのに。なんて、
つぶやきたくもなる。
でもそれは叶わないだろう、、、、
そして、人としてそれは望めない。
まぁ仕方ないのか、、、、
そういう人達だもんな、、、
そんなことをぼんやり思う。
そして、死んでいい対象は、
自分の家族であっては勿論いけない。
それは愛があるから。
死んでもらったら情のほうが勝ってしまう。
どうでもいい他人。
そんな人間に死んで欲しかったはずだ。
痛んでも苦しんでも、
どうでもいい他人だからゾクゾクしたんだろう。
私はその愛のない感情と欲望を抱きしめたりもした。あー愛がないから出来ることだよなぁ。と。
そしてその芸術家たちの欲望を、
時に愛おしくさえ感じてしまっていた。
そこまでして、芸術の高みを感じたいかと、、、
私という、そして他者という、
愛の欠片もない命を殺めてまでも求めたいもの。
その渇望に。
悲しくはない。
そりゃ他人に愛なんて私も持たない。
昔は辛かったけれど、
だろうな、、が先に読めているから、
まぁそうなるよね。が先にチョコンと立っている。
大丈夫。
私の最初の旦那さんや息子、親、
姉、は愛をもって私と向き合ってくれている。
だから大丈夫だったんだろう。
赤の他人さまに、愛をください。なんて、
そもそも願っちゃいない。
そこまでしての芸術への渇望に呆れて、
そして、呆れながら尊敬しただけだ。
死。は最高級の芸術だ。
それより高みはないのかもしれない。
人間が苦しんで苦しんで泣いて死んでいくサマは、神様さえ手を広げる芸術。
私も芸術家なら、もしかしたら、
同じことをしたかもしれない。
殴って殴って痛めつけて心を蹴っ飛ばして、
どう死んでいくのか、
死なないなら、もっと殴る傷つける、
また起き上がったら、また蹴り落とす。
手の甲に刃物で傷つけ、すがりたい壁から落ちるように工作して、とにかく、
苦しめ、そして死ね!
描きたいのは芸術だ。
やるかもしれない。
自分が名のある芸術家で作ることのほとんどをしてしまったあとなら、
余計、そう感じるかもしれない。
死という芸術。は、
魅力的なんだろう。
ルネッサンス絵画のように。
人間の欲望。
仕方ないくらいに足が早い。
最初は皆に混ざって、
死という芸術へ心ときめかせていた感じの人は、
とんとやめてしまったことまで、
見てとれる。
違うな。と感じたその時が、
芸術家ではなく、
人間でありたいと考えた軌跡なのかもしれない。
私はそのことをなんとなくほっとした気持ちで眺めながら、そして、少し残念がってすらいる。
おかしい脳みそだ。
あなたが最初に死に焦がれたはずが、
どうにも世界、世の中、他の人々の方が、
死への渇望。が強くなってしまったようだ。
とうにあなたを超えている人ばかり。
人々は人間の苦しみと死へ、
魅力を感じすぎた。
私は何を提示していけばいいんだろう。
死ねばいいんだろうけれど、
昔のような死へダイレクトに飛び込むような、
そんな躍動もいまはもうない。
芸術家たちは、そしてそのゲームで、
あたかも我も芸術家だと目を見張った人達は、
死への渇望。
そのドラックのような中毒性から、
目を覚ますことは出来るんだろうか、、、、
人の幸せ。はつまらなく、
人の注目はつまらなく、
人の余裕は耳に残らない。
どちらかと言えば、悩み苦しみの方が、
胸は動く。
そのことの全ては、
もう死への渇望。からきたもの。
どこかで渇望しているもの。
そしてこの国の芸術家たちは、
もっとそれを渇望してくれとばら撒く。
なにかが違うな、、、
けど、仕方ないのか、、、、、
私にはない。もうない。
若い季節にあったかもしれないソレは、
とことんない。
芸術家には私はなれないと知っているから。
他人とはいえ、
『あなたの命も心も愛してないので死んでください』そう感じた全ては、
なかなかのダメージだ。
それでも。子供産んでおいてよかった。
とつくづく感じる最近だ。
少なくとも、息子だけは、
そんなの思うわけないじゃん。って、
サラリと言ってくれることを私は知っている。
息子も親もみんな死ねばあの女もっと孤独で光るのに、、、それまではちょいちょい殴りながら楽しむか、、、、ハッピーな方向へ心が歩き出したら、全力で止めろ!
それが出来なければ、差し水してハッピーなんて色を薄くだ、、、、
絶対に幸せ気分になんか絶対にさせるな!
そんな感じだ、、、、、、
愛されずに育った子供のように君は空を見上げると書いたのは宮沢さんだけれど、
人間はみんながそんなものを望むような世界になってしまったのか、、、、、
悲しみにときめく世界になっていくんだろうか。
いつかほっと出来るんだろうか、私は。
ま、他人をはなっから信じてないから、
それはそれで、全力で生きるのみだ。
邪魔しながら、、、、
描きずらいわ、、、なんて言われながら。
たいしたもんだよ、ほんとに。
女、子供をいじめるな。って、
親には教わってないらしい。
弱い者だからこそ、やっちまえ!
が、最近のこの国の教えらしい。
よかった、、、息子がちゃんと育ってくれて。
息子が私の命をうわべではなく、
大事だと思ってくれる人間に育ってくれて。
情け無いのは、
自分の命の軽さだ。
そんな風にしか扱われない命の軽さ。
親に謝りたくなる。
ごめんなさい、私がこんなだから、
みんなに軽く扱われちゃったし、
まだ多分続いてるよ、、、
本当にごめんなさい。
亡くなった父に謝りたい夜もある。
でも、まぁ、考えてみれば、
そんな軽さの命なのも、また真なりである。
こんな命だから、そりゃそうなるわ。
みたいな、、、
紙きれ紙きれ!って笑ってたい。
今度友達に言ってちゃんと、
うちの命なんか紙っきれよぉー。
丸めてポイよぉー。って、
深刻にならずにちゃんと笑おう!
鼻でもかんでもらうぅー?みたいな、、、、、
命に意味なんか持たせたらダメだな、、
まじで。