亜華造船  は  設備 ノウハウ 資金  などには 欠けていたが 

 

造船所 の 親子の経営者 には やる気を感じた   

 

 

人の手配だけ は さすが 中国    どこからか ひとは 来た 

 

 

資金 受注船舶 は 日本側が 手配するというような 形態であった

 

 

最初の印象は 作業者は 工場周辺の 小屋に 布団 を持ち込み  寝て 即 働く

 

食事は 造船所は おかずを供給   三度三度

 

米は 各自が 弁当箱 に 洗って入れ 造船所 スチームラインに 入れて 炊く

 

 たくましい

 

 

董事長(会長)  総経理(社長)   長江 向こう岸の 辻産業 訪問

 

 左 趙建 董事長  右 息子 総経理

 

董事長は 自分で バージ建造を 実際に手掛けてきた たたき上げ

 

 

息子は 学卒 経理担当 日本 高松 四国ドックに 小生 広大 同期の 平井君の世話で 見学した

 

日本が 行っている 造船を 実際に 目で 見させて 小生の言うことの 具体性を 具現化していった

 

 

なお   彼らの 言葉は 北京語でなく   ジャンナン の 言葉  

 

この問題には 小生 通訳 曲折有     3人目 で 落ち着いた   難しい

 

 

私も 中国語の 先生 に 来てもらって 学んだが   ポルトガル語 の時のように 若くなく  挫折

 

 

挨拶 簡単な ことば のみ 可    電子辞書で 書くのは なんとか  メール 可

 

 

 既知 の 辻産業 工場長(左 二人目)

 

 

ブロック 日本への 輸出事業 なので  日本から 多くの 技術者常駐 中国人を指導して施工

 

辻産業には なんども いろんな  職人を連れてゆき  お世話になった   感謝

 

 

 辻 の 曲げ作業   亜華 の プレス

 

 辻の 曲がり外板 組立  バーニア治具 で アジャストする

 

後に 3万トンの ビルジ湾曲部の 曲げを施工するとき  導入した 新800トンプレスで 一気曲げ

治具を 工場長の指示で つくっていたので 止めさせ 厚鋼板 の プレス曲げの 基本を 講義して

やり替えさせたことがあった  基本知識 欠如

 

フレームベンダーもなく 板の上で ラインを描いて ジャッキで 曲げていた

逆直線法 を 知らなかった    後に 導入

 

線状加熱は どこからか 中国人を 呼んで はじめたが 小型ジャッキ併用方法で 効率が悪かった

 

日本から 多くの  職人指導者が 欲しかったが   費用面で 工夫

 

 150トンクレーン  大組立

 

 韓国向けブロック運搬船  機関室  

 バウスラスター部 外板 

 

 

船体 機関 電気の 艤装は ほとんど 先行艤装が できず  船体後 施工  非効率

 

また 多くの 船舶特有の 艤装品 の 製造も 遅れていた  

 

 

 

Mr. Pang (パン さん) の 登場  (Pang の漢字が 難しく 書けない)

 

 

  左 パンさん 中 下請け

 

 

董事長が どこからか   呼んできた  Mr. Pang

 

 

彼は 大連 工科大学 の 造船科 を 出て  青島の 大型造船所  で 働いた 経歴

 

私が 若い時に 大連に 居たことで  話が あった

 

 

会話は 英語だったが  私の 言わんとすることの 理解が早く   重要な男 になっていった

 

設計部長の 周さん   とともに 私には 必需     頭の良い 男

 

 

彼が 多くの 技術者を 呼んできて  検査 技術管理 実施    あげくは 先行艤装を 進めるために

 

パイプの 製作下請けを  ひと工場  借りて やることになった    管加工 請負

 

 

 

私の作る  資料も   日本側だけでなく   Pang さん 経由 董事長 に説明させ パイプ役

 

 建造 線表

 

   負荷計算 などなど

 

 

 

中国  大学造船学科 毎年 2000人 卒業  (日本 当時 200人)

 

学卒者の 漢字 暗記数  一万      と  言われたのは  この男

 

 

 

私とは 気が合って   よく 上海料理 を 一緒した

 

 

 南通 青年東路(チンネン トンルー)

 

 

ブロック 製造能力  拡大のため   日本側 との 合弁で 新工場建設 に 向かう

 

 

2024.06.28       pedra-oishi