立体駐車場 事業 を 展開していた 豊国工業(HK) は
民需部(みんじゅぶ) という 組織を立ち上げ
藤本正博 氏 を 部長に 小生を 副部長に して 事業拡大を目指した
働いていた 人たちは 若い人ばっかり だった
若い人と 事業拡大を目指して 付き合うことになる 楽しかった
この中に 川上健児 君 という 若い男がいた
私は 十年余りで HKを定年退職し 「造船コンサル PEDRA」 として 最初に
出向いたのは 南通 (nantong ナントン) 人口700万 (greater nantong)
中国 江蘇省 南通市 の 揚子江沿いの 造船所に 滞在しているときに
前触れなく 私を 訪ねてきた そういう 隠れたガッツ がある人間
上海から 揚子江北へ 南通 左 川上君
同じように 常石造船で ギリシャ船の 建造監督をしているときに 進水を見学時
に 船の説明を求めて 湊 武弘 君 が きた 彼も 仕事が好き
また 定年退職前に 大阪 堺の 日立造船 堺工場 に 沈埋函(ちんまいかん)
(海底トンネルのブロック)を 建造していたのを 一緒に 見に行ったのは
岸本 毅 君 かれは 誠実を旨としているような 男
まだまだ ほかにも たくさん これからという 若い人がいた
一緒にいるのが 本当に 楽しかった
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プロローグは これくらいにして 会社のことを
藤本部長は 先代 創業社長に ついていった 生粋の 水門営業マン(小生判断)
ヨット RV の 蔭山さんと 同い年で 9級上だった 前職 総務部長
山口県 私の好きな 船乗り 作詞家 星野哲郎の 出身地 周防大島 出身
大阪の 大学後 HK 就職 実家は みかん百姓 (小生と同じ)
ヨット RV に みんなを乗せて 瀬戸内周遊クルージング したことがあった
藤本さん 蔭山さん 引き合わせ 私に言わせれば
双方 大人(TAIJIN)
藤本部長は 小生に 自由に 思い切って 事業拡大をするよう
支援してくださった 今は 感謝 しかない
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藤本さんの 折々の 説明から
HK 金谷家は 呉 海軍の御用商人 金谷石鹸 を つくって 海軍に納入
特記として 昭和天皇 弟君 高松宮殿下(海軍将官)と 先代は 懇意
金谷家の 呉の 別宅に 夏季 殿下宿泊時 蛙の声対策 一晩中 笹で啼き制止
また 時期は失念したが 両殿下が 創立記念 植樹に 西条 本社 に ご降臨
名家 で 戦後 先代 が 技術有志 と 水門事業創業
特記 2点 一つは ピンジャッキ の 発明 現在 国交省 認可 普及
もう一つは 伊勢湾台風後の 名古屋圏での 小水門修復 に 多大の尽力
名古屋営業所進出 会社 拡大の契機 他にも あると思うが
西条に新工場 で 進出する前は 広島 大洲 で 新興金属 (株) シンコー
と 並んで 切磋琢磨し 社業発展 を期していた
シンコー は 舶用ポンプメーカー 中興の祖 筒井前社長 は 広大機械 出
舶用業界 ブラジルに造詣深く 日伯広島協会(小生当時 在)でも
お会いして 広大後輩として お話いただき 薫陶を得た
特に マイナス270度 の 液化 LNG 舶用 ポンプ 世界一 シェア
広島の 舶用業界では 中国塗料 と並んで シンコー は 専門TOP
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立体駐車場は 機械式 多段 昇降横行 パズル式 を 開発していた
これを マンション建設ブームに乗せ ゼネコン 相手に 販売を拡大
マンション ディベロッパー 設計事務所 ゼネコン 相手に営業
前職経験 が生きた なにが 幸い するか だれにも わからない
これを 亜鉛メッキ して 売り出した これが 功を奏した
亜鉛メッキでは ガルバ工業の 徳森君 には 世話になった 大崎高校の同級生
徳森君 日立造船時代からの メッキの付き合い
亜鉛メッキの 設計上 大事な点は ドブ池内で 確実に 空気が抜けること確認
その他 事業拡大で 代理店 拡大
九州(福岡)は セイワシステム 東京 名古屋 大阪 は HK支店に 常駐
セイワが 開発した プレファブ 連続傾床式を 小生の縁利用で 広大病院に
2回 納入
船舶工学科に 事務官で いたことから 懇意 随意契約
また マツダ 自動車販売会社 アンフィニ 広島 社長 松田 弘 氏(当時) と HK 金谷社長と 広島経済界で 懇意 面会 気に入られ
タワー式 3本(日本コンベヤー製造分)
大洲店開業時には モデル車展示用 4段式 納入など 愛顧いただいた
このように 販売と コストダウン メンテ維持管理 部員の 元気で 快活な
勤務維持に 傾注し 初期の 目的を ほぼ 完就 して 定年退職した
おわりに 若い 三君の これからの人生 への 激励を 込めて 紹介
川上健児 君
長崎県 壱岐出身 佐世保高専 機械 藤本総務部長 時代に就職
私が 入ったころ コンピューターを二台 操作 1は CAD 図面作成
2は 資料作成 夜も 寝袋で 下に寝て 働く
私は 仕事師が 好きだ 彼は 私が 生涯会った 仕事師 五指入り
中国 南通 造船所に来た 川上君
次いで 小生 川上君 右 川渕君 (私が 呼んで 一緒に 造船)
現在 豊国ファシリティーズ 社長 (東京在) よくやった
岸本 毅 君
立駐 拡販 当初 小生と ほとんど一緒に 行動 運転手兼
広島市内 裏通りを含めて 熟知 彼の 運転で 事務所 現場 完璧訪問
誠実に 依頼される事項を 確実に実行 顧客信頼 確保 彼のおかげ 感謝
先ごろまで 起重機子会社 社長 現 相談役
湊 武弘 君 彼ら二人と ほぼ 同じ年代 わたしより 20級 若い
頑健 現場据え付け 指導 抜群 (ねじ締め 古今 No.1 と 小生呼称)
動くものに 興味 改善意欲 旺盛 立派な 現場技術者
昨今 HK 円満退社 関係会社 勤務
まだ 60 これから 15年 は 行ってほしい
豊国工業で 関係した 諸兄 諸人 に 敬意を 表して 敬礼
2024.06.18 pedra-oishi