日立造船 は  当時 全社員 1万6千人    借入金 数千億 三和銀行

 

 

本社 大阪   支社 東京 各地域 県庁所在地   海外 亜 北南米 欧

 

工場   神奈川  舞鶴  堺  築港  向島  因島  有明

 

 

数度に及ぶ 合理化   人員漸減

 

 

 

プラザ合意による 円高不況  決定的    村山社長時代に 大鉈

 

 

全社  40社 もつれの  新会社設立  で  ワンステップ受皿式 合理化

 

 

(数年で 1万人減   本社員 6千人 の 会社に)

 

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因島 は 新造船廃止   新造船部門  1500人  船殻 800人  

 

 

こういう 背景時に   小生 因島 十数社 設立新会社の 一社長に

 

 

 

その前に 突然いなくなった 課長の   代理の立場になり 

 

船殻ライン5係は  最終船 に 向けての  工事完遂に向けて

 

 

残す人を決め   受皿会社に行く人  自由に退職金を受けて出てゆく人 を

 

各人の希望  アンケートを 取り   

 

 

800人分 の コンピューター打ち出しリスト を うけとり

 

 

会して 各ラインの係長 5人 に 渡した   時の 情景は  深く心に残る

 

 

皆  日本人であった   島育ちの造船屋  土人  であった

 

粛々と 冷静に 事に当たり   最終船は 完遂  

 

 

 

時間の経過とともに わが身を思う人々の群れと 化していった  必然     

 

スムーズ には  行かなかった

 

 

城の 落城時 にも こういう 情景だろうな と 様々な 場面で 連想    

 

 

 

ひとり 百万円

 

 

40名に及ぶ 新会社の社長は 大阪 江戸堀 肥後橋  本社 九階  参集

 

大会議室 で 代表役員から  「ひとり 百万円で・・・」 と 告げられた

 

 

 

小生は 資本金2億円 で 200人を 引き受ける  受皿会社 社長 となった 

 

 

4年有余  前回記述のことを含めて  諸々 闘ったが  

 

造船屋に  船以外のことで 多くの人が  生きてゆく道が  簡単に あるはず

 

もなく 

 

 

  清算 の命 を   受諾した

 

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  坂井 健典(けんすけ) 君     

 

 

彼は 前述のごとく M係で 出会って  新会社 最後まで ついてきてくれた

 

 

他造船会社 ブロック 請負   鉄骨請負  重防食塗装  車両改造 など

 

 

 

清算後 には ドラム缶焼却炉 を つくり  何日もかけて 諸々 書類を

 

焼却してくれ  最後まで 尽くしてくれた

 

 

すべてが 終わって   「 大阪の 親族の ところに・・・」

 

私は わかっており   「 ま て ! 」

 

 

事前に  野村社長 先輩所長 に 話を決めていた 

 

因島 向島 統括の  「ニチゾウテック 広島」 に  受け入れられた

 

 

 

後述する  「ヨット II 」  にも  小生の 片腕として  出す

 

 

 

小生  数か月の 因島  静養の後    広島へ 単身 移るとき

 

2トン トラックで  机 布団を積んで  広島まで 運転してくれた

 

 

 

小生 「造船コンサル PEDRA」 で  中国 南通 滞在時 に 病気で逝去

 

家族ともども 移っていた  福山の自宅に    後日  焼香 参上

 

 

因島育ち の  島育ち造船屋  であった

 

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 左 糸山 造機課長   右 小林 船装課長

 

 

 

糸山さんは 神戸商船大 機関     小林さんは 広大 船 の 先輩

 

 

お二人とも   小生より 年長で    新会社の 社長 

 

 

 

糸山さんとは 土生で会うと どこかで  一緒に 二人で よく飲んだ

 

 

小林先輩は いつも 優しく 接してくれた

 

 

数年前  お二方 とも    訃報 に接した   合掌

 

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ここで  野村力 ニチゾウテック社長   村山利雄 日立造船社長 からの

 

就職 の 話を 辞退した ときの ことば 

 

 

「 思うところあって・・・」 の  意味

 

 

当時 中学 高校に  通っていた 我が子  の  同級生などの 多くの

 

子弟の 主 父親 も   同じように   将来 どう生きるか  呻吟

 

 

そういうなか  自分は  多くの人との  様々な 別れを して

 

会社の  特恵 を  受けることが  許せなかった  自殺者もいるというのに

 

 

 

粗野 不卑

 

粗 ニシテ   野 ダガ   卑 デハナイ

 

 

 

 

それに たくさんの 投資を 会社は  小生に してくれ 経験させてくれた

 

造船について   どこに行っても   負ける気はしなかった   

 

 

のは  日立造船の  おかげ  感謝の念 が  絶えなかった

 

 

自由に 自分一人の力で 生きて   女房子供は 食わせる  と 

 

数か月の 静養の後  闘志が みなぎってきた

 

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この 項  最後に  横山 忠行 君のことを

 

 

 左 青木 汎 君   右 横山 忠行 君

 

 

横山君は  岡山出身  阪大法科  因島 同期入社 

 

青木と 同じく 人事畑 スタート   関連企業部長 アタカ工業専務 歴任  

 

 

 

特別 親しく したわけでないが  

 

さすが 人事畑   小生 新会社清算  社外に行く と どこで聞いたか

 

 

小生 大阪在中 声が かかり  「・・ ご苦労さん・・」  梅田 新地に 

 

 

その後も 同じ趣旨の 便り  いまでも つづく

 

ハートが わかっていた

 

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「貝 ほって きたでー  ・・・」

 

 

清算に  疲れて   数か月 家で   静養しているときに  

 

よく いろんなのが   一升瓶を さげて  訪ねてくれ

 

懐旧 と  美酒

 

 

 

思い出 の  因島を 去る時 が 来た

 

 

 

  2024.06.04    pedra-oishi