因島の 新造船 廃止を 決定した時の  社長は 村山利雄 氏 であった

 

 

最後の進水式は 日産自動車の 自動車運搬船 

 

 

 

私が 大学3年(21歳)での 夏季 造船実習   初めて 本物の船に 触るのは

 

日立造船 大阪  桜島工場(現 USJ) での  進水作業    

 

日産自動車の 自動車運搬船 追浜丸  だった  

 

 

二十数年 経過   人生 愉快也

 

 

奇しくも 日産自動車 の 船       今も 日産自動車 愛顧

 

  同級の香川君と

 

 ブルーバード 専用船

 

新造船 廃止後の  空 船台

 

 無常

 

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村山利雄 社長  とのこと

 

 

 

1920-2020  ’83-’88 (63-68)  社長  

 

宮崎・都城 (焼酎屋 広く知られていた)  長崎高商   舞鶴 再興

 

 

 当時の役員

 

 

先述の通り 諸般の 情勢から   因島での 新造船 廃止を決定

 

 

小生は 全社 40社近い 合理化目的の 新会社 社長任命 (40代 はじめ)

 

後で 知ったが  115名 同期入社  で 小生 ひとり だった

 

 

4年 余りの 闘いの後  清算すべしとの 命  を受け  受諾  

 

 

 

その折  本社 社長室  (初めて 入った)   で  対面

 

 

村山社長 曰く  「 大阪の 環境関連の 会社に 行かないか 」

 

 

小生       「 思うところがありますので  辞退します 」

 

 

この後 もう一度 会うことはあったが ・・・  

 

 

 

 

その後は  小生   人生  道を求め  十数年

 

 

造船コンサル PEDRA  で 活動      まわり道

 

 

 

いつからだったか 思い出せないが  文通

 

 

 

 

 

折々 小生の人生 因島 中国 などなど   多くに 便りをいただき  文通

 

 

 

 訃報

 

 

永遠の別れとなった  

 

心に 残る 造船経営者 だった

 

 

2024.06.02    pedra-oishi