私が 最初に 行った 大連造船所 老廠

 

 

湯口 俊一(しゅんいち) 副社長  

 

とのこと

 

 

私の 知っている 湯口俊一氏 とのこと

 

 

湯口さんは 大正8年生まれ  京都の出身   父君は 陸軍中将

 

第三高等学校  東大 船舶 後 日立造船の前身 大阪鉄工所  造船 設計畑

 

造船設計便覧 初版版  には 基本計画 小委員長 とある

 

 

後 日立造船では 船舶ーー部長(東京)   船舶部門 副社長  顧問 退職

 

(東京支社 飯野ビル時代) 小生 学生時 食事をご馳走になったことがある

 

中国 船舶工業公司(COSCO の 前身)顧問

 

 

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日立造船が 海外造船との交流時 (百年史 から) 中国造船顧問に就任

 

 

 

 

 

 

湯口さんの 中国造船についての 論文  緒 結 のみ 

示す

 

 

 

 

 

 

湯口さん 訪中時の 中国側の 対応  (小生 同席 撮影)

 

運輸大臣 (中国では 部長 と呼称) が 対応

 

下 写真 左 白ワイシャツ 湯口 中国船舶工業公司顧問 その奥左 運輸大臣

 

 

後述 する 

 

内屋 元 因島造船部長(右) と 大連造船所 所長(中) との 三人

 

 

湯口さん 等を 中心として 中国側とで 

 

技術協力 担当が 決められた

 

大連地区  日立造船

上海地区  三菱重工

広州地区  石川島播磨

 

こうして 日立造船 は 大連造船所 への

技術協力 パートナーになり 

 

   小生も  関わるようになった

 

大連は 古い工場(老廠 RAO ) は 因島工場 担当

    新しい工場(新廠 SHIN)は 堺工場 となった

 

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ここで 父 と 湯口さん とのこと

 

 

左から 父  次兄  中本和明 伯父 (医者)

次いで    長兄  中本基  伯父 (酒造業)

       末弟  中本逸雄 叔父 (薬局) 

 

父と 逸雄叔父 は よく似ていて 間違えそうであった

 

この 逸雄叔父に 湯口さんの 妹さんが 嫁がれ ていた

 

父が 湯口さんと 戦前 大阪鉄工 桜島造船所 設計で

懇意になり 弟と 妹さんを 一緒にさせたのには どう見ても 二人の 所業    詳しいことは 誰も・・・

 

 

 

湯口さんと  私の  最初の酒席は  

 

この 逸雄叔父 の 通夜の夜   (湯口さんの 義弟)

 

二階に 上がると  一升瓶を またぐらに した湯口さん

 

からの  コップ酒

 

 

 

次いで 成田から 上海経由 北京行き 

 

何回目の訪中だったか 失念

 

一等席に呼ばれ 隣席 で 北京に着くまで 酒談

 

 

後は 北京 大連 では 数知れず

 

 

この 湯口団長下 の 訪中団に 加わり 日立造船を

 

代表して 技術援助協力 に 参加 できたのは

 

湯口さんと 同い年(T8)の 母の 喜ぶところだった

 

 

若いころ 枚方の 我が家に 父が 湯口さんを よく連れてきていたと  母が 懐旧していたのに   報いた 

 

 

 

俺に付いて  うなれと   湯口さん

 

北京の宴会で

 

 

2024.05.24     pedra-oishi