イグアスの滝  ずいぶん経ってから 思い出しながら 描いた    油彩

 

 

イグアスの滝       小生 空撮

 

ブラジル  パラグアイ  アルゼンチン  の 三か国 が 

 

接する  南部にある   大平原に  あふれる  水が 

 

100m 落差で 陥没した  大きな 溝に  流れ落ちる  構造

 

 

南米大陸は 北部の アマゾン に 流れる 河が  最大だが

 

中南部は アンデス山脈  と 大西洋側の 山地 に挟まれた 大きな 平原に

 

ある 巨大な パンタナール 湿原 等から ブラジル ウルグアイ アルゼンチン 

 

で織りなす 海岸の 湾へ 流れる パラナ河 となる  この 上流に ある滝

 

 

 

ちなみに パラグアイ と ウルグアイ   同じような 響きの 国名

 

ウルグアイ は アルゼンチン ブラジル南部 に接しており  黒人は 寒さを

 

避けるのでおらず  ヨーロッパからの 移民 主体で 発達している

 

 

 

一方 パラグアイは 海がなく 河で 繋がった  内陸の 貧しい国 現地人

 

私は  2回  パラグアイ に入った

 

パラグアイの 食堂で PIJU ピジュー (ビール) を頼んだら ラベルのない

 

余り 飲めそうに ない  黒瓶  が 出てきた

 

 

一回目は 単身の時 飛行機で 入った

 

二回目は 家族を 乗せて ニテロイ の 自宅を 深夜にでて 混雑を避け

 

サンパウロ クリチバ 経由 ポンタグロッサ で 一泊 翌日 イグアス着

 

日立造船 リオ支店 の 運転手 ベンジャミン の アドバイス

 

ピストル (買わなかった)

ガソリンは 半分になったら  必ず給油

エンジンへの 水供給ゴムパイプ予備準備 (途中で 裂けた が 取り替えた)

金は 分散保持 (毎度のことながら パトカーに 免許証に挟んだ金 お渡し)

 

3500 CC FORD MAVERIC    時速 140km 程度

 

1700km を 一人で 二日で 走破    若かった

 

パラグアイ との 国境にかかる  PONTE AMIDADE   友情の橋

 

橋を 渡った 街    電気製品商店  カジノ に 行った

 

瀬戸内海 も  地理上 特異な 構造    この 滝も 

 

 

 

カーナバル の 休み

 

 リオ の 街角

 

ブラジルでは カーマバルの期間中 金曜日から 火曜日の朝まで は 全て休む

 

この 時期は 真夏であり  誰もが 2週間の 休みを取る  フェリアス

 

順番に 休み  職位が上の 人が 自分の仕事を代行する スケジュール 化

 

私も 4回この休みを取った  ESCOLA DE SAMBA エスコーラデサンバ

 

サンバ学校 と称される リオのカーニバル で 有名な 踊りは 三回見た

 

その他の期間は 旅行した

 

南部まで 単身 バス旅行 ポートアレグレ まで 帰り 飛行機

 

イグアス 家族旅行 2週間 車で  農園ホテル HOTEL FAZENDA  が 充実

 

記憶に 深く残る 南米大陸の 旅行であった 

 

 

 ここで 特異なことについて

 

 

 

自衛艦 訪問 

 

かとり  秋雲  の  2 艦艇が リオ に来た

 

 

子供たちに 艦内で お菓子や コーラなどを 馳走してくれ 日本の味 を 堪能

 

  荒木 三曹

 

この 荒木 三曹 (確か 九州の出 久留米か)が 人懐こく 親切で 気に入り

 

翌日 何人かを リオ見学に 案内した  ポンデアスーカ  コルコバード

 

 

元気でいるか

 

 

 

私は リオまで ヨットで きた   白鷗号 世界一周航海   に乗った

 

神戸商船大 ヨット部出身の 武田治郎 氏 と 縁あって 神戸で 

 

ヨットの中で  語ったことがある     如何に 大変な 航海か

 

 

 

日本からの 航海   移民

 

 

 

移民 

 

約 100年  150万人 の 日系人

 

 

ブラジルで 多くの 移民の人たちと 出会い 日本の

ことを 語り合った

 

 

この中で お世話になった  三組の家族

 

 

簀戸さん (すど)

 

妻の リオで活動の中で 知り合った  確か 愛媛出身 の 簀戸さん

 

リオ近郊で 農場を 運営   よく 伺って 離れに 泊めてもらった

 

後日  奥さん ひとりになられ  因島の自宅に来てくれた

 

 

 簀戸さん 

 

我々に食させるため   ヤシの実を切る ナイフ を 片手に  

 

苦労された ことは あまり話さなかった    心に残る

 

 泊めていただいた 離れ

 

畑の 脇の 水で 育った 三つ葉 クレソンなどを たくさんいただいた

 

 

このうちで アマゾン トメアス  移民し  リオ に来た人とも会った

 

角田房子さん 著の トメアスでの 胡椒栽培   の 話   ぜひ

 

リオの 土産物屋 ドンサッシ    あるじ 移民

(鹿児島出身  司馬遼太郎  飛ぶが如く  全巻譲)

 

で 買い求めた 多くの中に 今も触る   トメアス 製 の 硬い 木剣 

 

 

 

 

大西さん

 

愛媛出身   奥さんが 高知 沖ノ島出身の  川渕君 の 母の 妹

 

サンパウロ 動物園 (ZOLOGiCO  ゾーロジコ)近くで クリーニング業

 

4階建ての ビルを建て 大ファミリーで 大都市 サンパウロ 相手に 

 

おしぼり  を含めて 運営     成功した 大家族 だった

 

 

ニテロイの自宅にも  因島の自宅にも  二人で 来てくれた

 

 大西夫妻 川渕君  よく 一緒に行った サンパウロ

 

 

川渕君とは リオ サンパウロ 間を 夜行バスで 往復

 

ニテロイの宿舎で 魚市場で買ってきた アジを 裁き 灼熱に ベランダ干し

アジの開きの 炙り で 一杯  なんど やったことか

 

二人で 日本からの 米で つくった  握りずし

 

 

愛すべき 漢 だった   

 

 

新緑の この季節   彼の手配で 送られて きていた 

 

土佐清水 からの カツオ    もう来ない

 

 

 

 

川上 しゆる  さん  夫妻

 

 

サンパウロの  セー広場 に近い  真ん中の 大通りの 

 

マンションだった

 

 

愛媛県 大三島 宗方  出身    二人とも 

 

しゆるさん が   私の 母の いとこ   

 

母からの 伝達で 会いに行った    なんとなく 血 を 感じた

 

 

 

今治中学 を 出て  昭和初めの 恐慌 不況時に   二人で 移民

 

何をして 生きてきたかは 語られなかった  

 

 

ひとりでも 家族を連れても  伺った     大三島 宗方弁 談議

 

 

息子ふたり   長男 医者 開業   立派だった

       

次男 技術者   リベルダージ を 案内してくれた  東映映画を一緒

 

娘一人 電気技術者

 

三人とも  サンパウロ大学 だった     日本では 東大  

 

 

 次男 長女と

 

川上さんとは 大三島 宗方の 親族の人に 伺った 住所への 手紙で

 

コミュニケーション

 

頭の すずやかな   よく 勉強された人だなー  と思った

 

 

 

残念な ことに 子供たちの 日本語は ほとんどできず

 

夫婦間 は 日本語

 

おぼつかない ポルトガル語 での 会話 を聞き    悲しかった

 

 

 

多くの 移民の人たちが 抱え   歩んだ 苦難の 道と 

 

ただ  教育が 一番  は  心にしみわたった

 

2024.05.15           pedra-oishi