Estaleiro Maua  2万5千トン バラ済み船 25 BC 進水  背景 リオ大橋

 

進水 は 造船で 重要な 節点 である

 

英語では Launching    ポルトガル語 Lancamento  (ランサメント 

 

Cは下にひげがつく サ と発音)  中国語では 下水 (シャースイ)

 

 

 

イギリス 造船コンサル と 競合

 

我々 日本 日立造船 が 日商岩井の 仲介で 技術指導を 開始した時点で

 

既に イギリス人 が 事務所を持って コンサル活動 を していた

 

背景として 国家プロジェクト であり 25BC, 15C(1万5千トン DWT 

Cargo カーゴ 一般貨物船) 双方で 数十隻 という 膨大な 受注

決まっており  国家の管理機関 SUNAMAN スナマン という 組織が 

造船所の内部に 入っており、 鋼材加工 鋼材組立 進水(重量 隻数)完工

という段階で 国家から 造船所に 段階的に 実施量に 応じて 支払われるという  一般の 造船支払いではなく 作業をこなせば こなすだけ 金銭が 入る

仕組みとなっていた

 

それだけ 造船所 幹部は 真剣勝負に入っていた

 

 

この イギリス人のやり方 は  大きく言うと 「 マニュアル 」を つくり

膨大な ドキュメントを 幹部 指導者に 読ませ 改善させるという 方法  

 

派手な チョッキ ベストを 着た男たちが 多くの タイピストに 文書を 

つくらせ 壁の 本棚に  こずんでいた (広島弁)(積み上げていた)

 

我々 日本人は 改善すべき 作業を 実際に やって見せ 作業者 管理者が

納得して リピート する という 方法で  必要な 作業指導者を 一定期間

滞在させ やって見せる方法をとった

 

 

いつの間にか イギリス人の 姿は 見えなくなった

 

 

専門職の 日本からの派遣

 

設計 現場指導者 を 延べ 100人 日立造船の 各工場から 派遣された

 

堺 舞鶴 向島 因島 から であった     体の良い 出稼ぎ であった

 

 

ある時期の 滞在者の 写真      全てではない

 

 

先行艤装 が 遅れており  多くの 艤装設計 現場も艤装の人が 要請を受けた

 

継続するかどうかは MAUA側から 評価が出て 2か月ぐらいで 帰ったものもいた

半年 一年 など 職種で さまざまであった

 

私の管轄の 船体船殻工事に関しては

 

生産計画  村上スタッフ

生産設計  氏名 失念 ロガトーム切断機用フィルム製作 ラインズ作図

内業 曲げ ぎょう鉄(焼き曲げ) 石田曲げ職長

大組立   村上取付職長  藤原取付職長

外業取付  村井取付職長

足場    大道足場職長

 

 

船体艤装  では 同期入社の 横尾君も 一時期滞在

 横尾君と

 

艤装品集配 早瀬スタッフ

早瀬さん 大道職長 小生

 

塗装    野田山班長

船体鉄艤装

船体管艤装 など 夫々 職長級の人

 

機関艤装も スタッフ 仕上げ 鉄艤装 管艤装 職長級の 第一線の人々 派遣

 

こういった 日立造船の現場の職長級の人々が 道具 工具 等も 持参し

ブラジル人の 選ばれた 人々に 実際にやって見せ 習得させていった

 

特筆する事項

 

村井外業取付職長

  外業の連中と村井さん

 

決め方 を主体に指導   因島には 海軍の工廠 将官 伝来のものがあった

 

決め方は ブロックの位置の寸法計測 溶接による変異予測 重量による沈下 考慮

 

船底見通し 船底に 明かりが 通るスリットを常設し 船底の変化を計測

船を 正確に つくろうという 考えが ほとんどなく 村井さんの指導は光った

 

特に ドックのカーゴの 外板を建てた トップストリンガーのわずかの幅の上を

歩いて 外板トップの伝いを見るというような 高所の 確認は 誰も 行ったものがいなかった   ブラジル人が 驚いて 信頼を得ていった

 

船台では 中心線を 山側の 岩の上に マーキン ペイントし 上部ブロックの

センター確保を 厳しく 指導した  

 

帰国後は 取付の係長を なさった  有能な 皆に好かれる 造船屋 であった 

 

個人的な思い出としては うどんをビール瓶で 叩いて作って食べさせていただいた

サントスまで 日本人の移民最初の 笠戸丸 着岸岸壁 を見に行った

サンパウロ リベルダージ の ガルボンブエノ の 寿司屋 「すし安」で飲んだ

 

藤原 大組立取付 職長

 進水前に 左 藤原さん

 

大組立工場は 4棟あり  毎日すべての工場の ブロック組立 指導

 

特に 25BC は 全ての ブロックの組立要領を 紙面にして作成し ポルトガル語

に して 関係者に 配り  大組立の 作業平準化に努めた   よく作られた

 

藤原さんの   記憶

 

到着してすぐに 私に 「竹が欲しい」といわれ 詳しく聞いて ブラジル人に

厚めの 乾燥した 竹を なん節か 持ってこさせた

 

彼は 自分専用の  大きめの ノミ(金具)を 持参してきており スミサシ を

つくり 指導するものに 与え 位置出しの 重要性を 教えた

墨ツボは 日本のものとは異なっていたが あるにはあった

 

石田 曲げ 職長

 

加工工場に 厚 鉄板で 定盤を作り 線状加熱曲げ方法を 選ばれた 数人に

指導した  皆 初めての 作業方法で 熱心に取り組み 精度向上に寄与した

 

足場

大道 職長

 因島の 造船 足場は 日立造船の中で ピカ一 であった

その職場の 職長を 半年 常駐してもらい 改善した

 

大道さんから  職人のスタイル改善  工具  番線準備 (日本では 八番線) 

曲がり外板用 短冊 ネット などの要望が出て  バレンチ副社長に話し

私の記憶では 約 3000万円 程度かかったが  全て 改善し

 

大道足場 oomichi  andaime  (アンダイメ) と 呼称され 船台 ドック

艫表 全て 架設を改善した  満足した 大道さんから 喜んでもらって帰国

 

その後 因島では 私が 外業工程の 係長になり 突発的な 足場架設に

いつも 前向きに 協力してもらった

 

大道さんとの 思い出

 

リオには 競馬場があり 一緒に行って 大道さんが 当てた

その金で 彼の おごりで リオの 日本食堂で 宴会となった

 

 

 

多くの人との 思い出があるが 

 

機関 管艤装職長(パイプ屋)の 弓場さん  土生の人

 弓場さん

 

機関室のパイプの装置図は 先述の通り 簡単に 学べない

 

今でも あれを 正確に 判読し 寸法を出し パイプバンドを 取付し

パイプを固定し 搭載後に 接続し フラッシング清掃をし

油 水 海水 蒸気 空気 等を 漏れなく 通過させる この 技術者には

 

一造船屋として 敬服している

 

この 弓場さん 明るく 皆に好かれ 仕事が一緒できれば うれしくなる人だった

 

担当員時代から エンジン場で お会いしていた

 

この人 弓場さん との思い出

 

ある休日 村井さんたちと イパネマ海岸の  日曜市を 見学に 

バスで海の GAROTA を眺めながら 行って  バスを降りて

右肩にかけた 買い求めた 革製の かばんが鋭く 切られ

中の カメラが なくなっていた   のに 気が付いた

 

村井さんも 同じように やられていた

確かに 左の 腰あたりを 小さな子供が 触るので 触るなと

何度も 左手で 払っていた その時のやられたのだろうと

 

その後 誰から聞いたのか 弓場さんが 予備のカメラがあるからと言って

私に 貸してくださった   本当に助かった  そういう人だった

 

一年後の 一時帰国で 新しいのを買った 

 

村井さんが どうしたか 記憶にない

 

 

このようにして 建造期間を 短縮し 現場工数を

削減していった

 

MAUA の 幹部から 一般作業者まで HITACHI が

伝わった

 

艤装 岸壁の 25BC 最大 10隻近く 係留された

 

私が 行った 業務内容は 次号 詳細を示す

 

 

その前に 日本に 帰国しなかった  人のことを

 

 教会で結婚

 

堺工場から来ていた 彼は 現地の 人と結婚した 後で 堺に 一緒に帰った

と聞いた  その後のことは 不況下日立造船の 混乱があり どうなったか

 

そのほかにも 舞鶴から来ていて 私が 単身時 一緒のマンションだった

田中君 (電気屋)  毎朝 朝食を作ってくれた どこでどうしているか

 

向島から来ていた 造船屋も 残った

 

まだいたのかどうか  歳月の経過   記憶にでてこない

 

 

人生は 時勢 環境 出会い などで 大きく うごく

ただ 元気で おれば どうにかなる

 

2024.05.11    pedra-oishi