Estaleiro Maua

 

 

 出船    リオ  コルコバード 700mH   キリスト像 を 望む

 

 

 

広大 同窓会

 

リオ で  広大 同窓生  7人  が 集まった

 

2回 行った   一度は リオ プラサキンゼ  八角堂 海鮮レストラン で

 

 

左から    数字は 昭和 卒年

 

小生(日立因島 MAUA 42船)   於保(おぼ IHI相生 ISHIBRAS 44船) 

 

植松(IHI相生 ISHIBRAS 39船)  (IHI呉 RENAVE 43船) 

 

失念(IHI呉 ISHIBRAS 政経)  松浦(日立因島 MAUA 船) 

 

梅次(IHI呉 RENAVE 船)

 

 

 

これは 小生 赴任して しばらくたって IHI呉から ニテロイの島の 旧来の

 

ドックを利用しての  IHI 船修理部門 の開設(RENAVE ヘナーベ)で  

 

林 梅次 現場の人 が ニテロイに来て 人数が 増えたので 同窓会を 行った

 

 

林君が 来るまでは 

 

植松 於保 小生の 3人で ちょくちょく 会うようになっていた

 

 

 於保 小生 植松さん

 

 

於保 幸徳 君 とのこと

 

 

学生時代は 工学部グランドで ソフトボールを 一緒したぐらいで 余り 付き合いはなかったが 元気のいいやつだ 位の 印象はあった

 

リオに行くことになって いつ どこで 聞いたか まったく覚えていないが

2級下の 於保君が リオ の ISHIBRAS にいる というのが 頭に浮かび

 

ポルトガル語が まったく出来ずに 赴任し ホテル 造船所 を 往復するだけの折  そうだ 於保君に会って ブラジルのことを 聞こう という気になった

 

確か ホテルから 往生しながら 電話番号を 探し当て  電話しても 

女性の交換手の ポルトガル語が 分からず 「Mr. OBO おぼ  OBO・・・」と繰り返しても  らちが明かず    なぜなら ポルトガル語では 

 

オボ OVO  は  卵 (たまご)

 

Mr を Sr セニョール に変え 何度も 何日も 繰り返した挙句 ようやく

つながり 

 

於保君に ホテルに来てもらって 会い、「Por favor  linha para  Sr. OBO」という 言い方を カタカナで 書いてもらい 繋がる フレーズが できた

 

たった それだけのことで これだけ 往生していた  携帯もなく ホテル以外で

 

は 専用の コインをゲットしての 公衆電話  いろいろ 困難があった

 

こうして 於保君との交流が始まり 

 

何度もTIJUCA(チジューカ)のマンションに 泊めてもらったり

 

CABO FRIO (100km 離れた リゾート地)に カツオ 釣り に連れて行って

もらって  30匹 位 二人で釣って IHI の人に配ったり 残りを 於保君の

マンションの 風呂場で 裁いて  食したなど 多くの  思い出がある

 

広大での 同級生だった  奥さんには 大変 お世話になりました

 

帰国して 於保君が IHI呉の 修理部長 になり 赴任すると聞いて 小生の

広島の自宅で  お礼の小宴で  もてなしたのを 思い出す

 

於保君は 広大船舶卒業生同窓会

最後の 船舶会長 として 挨拶してくれたのも

思い出す、 相生に 居住しており 何度も 誘われたが 行けていない

 

 

 

植松さん  とのこと

 

 於保君宅で植松さん と

 

 

この 先輩とは 不思議な 縁がある   三度も  思わずの出会い

 

人生は 面白い

 

 

大学三年の春  造船所巡りの  旅を クラスで行った

 

その折 IHI 相生工場 での 工場見学時に 案内していただいたのが 

 

 

植松さん   そして リオで 会い    ISHIBRAS 工場見学 

 

南崎工場長宅 (BOTA FOGO) へ 2度も ご案内いただいた

 

 

さらに 回数は忘れたが リオの イタニャンガ ゴルフクラブ に 連れて行って

 

いただき プレイを した

 

フェアウェーの 芝が 噛みつく 芝だったのを 思い出す

 

 

更に

 

私が 60代半ばに 中国 江蘇省 南通市 の 造船所に 赴任中

 

南通市 三徳ホテル の 前筋 の スナック 「 ハナミズキ 」の スタンドで

 

背中を見て 「植松さん」と 声かけ   ピン ポーン

 

 

双方が 驚いた     親しく 語り合ったのは 言うまでもない

 

 

 

林 清明 君 とのこと

 

 

 

林君とは 学年が ひとつ違いで 学生時代も 交流があったので 顔は知っていた

 

ニテロイの イカライ海岸の マンション群の 中で 隣組で 家族ぐるみでも 付

 

き合うし

 

RENAVE には 呉の 修理部門の 現場の人たちも 多く

 

その人たちも入れて 付き合った

 

 

林君は 結局 12年 ニテロイ    その後 帰国して

 

シンガポールの修理工場   シンガポールに行った折

 

一週間 泊めてもらい  案内をしてもらい

 

シンガポールで 日立出身者(広大因島 先輩 村上鉄さん、柳川さん など)と 

 

IHIと合同 宴会を 準備してくれ 思い出深い 楽しい時を 過ごさせてもらった

 

 

横浜工場の修理部長  を歴任し    折々 会っていた

 

 

更に 小生が 今治造船の 大連(旅順)工場 に 検査に行った折  その隣の 

 

川重-中国の合弁造船会社  DAKSで  新造船の監督をしており

 

大連で 旧交を温めた

 

 

 

というように 広大卒 ということで  リオ での

 

数奇な 交流が  人生を 彩ってくれた

 

 

   2024.05.09      pedra-oishi