羽田から リオ ガレオン空港(当時)へ VARIG ブラジル航空 で 25時間
ロス リマ で トランジット
当時は 帰国時は ロス アンカレッジ だった
(都合 3往復した 今思うと よく やったと思う)
リオ セントロ ホテル セハドール に 一人 で ブラジル生活 開始
部長らは 数日で 帰国した
マウア 造船所 Estaleiro Maua 因島を小さくしたような 配置
中央に ドック 1万5千トン 貨物船 連続建造
右の 端に 船台 2万5千トン バラ積み船 連続建造
同じ 船を 大量に 受注 建造 国家による 計画造船
リオ グアナバラ湾 空中写真 河ではなかったが
入口が小さく 1500年の1月に ポルトガル人が 帆船で 初めて入ってきて
河(Rio)だと 思ったことが 地名由来
River of January 一月の河 Rio de Janeiro リオデジャネイロ
リオ と サンパウロ 約600Km 東京-大阪 間
高速道路 バス 鉄道 で 結ばれている
リオには 国家契約で IHI ISHIBRAS 石川島造船 日本 30万トンタンカー
南崎所長以下 幹部は 日本人 土光さんが 進出を決めた
リオ サントス 間の リオよりの アングラドスへイス には オランダ の
VEROLME ベローメ が 進出していた 後年 見学した
諸所に オランダらしい 進んだ 技術が見られたが
FCB は なく 板継後 大がかりに 反転 溶接して 遅れていた
グアナバラ 湾 リオ ニテロイ 大橋(13km)の リオ側 ふもと IHI 造船所
ニテロイ側 マウア 造船所
ホテル からは プラサキンゼまで 徒歩20分 岸壁から造船所まで ランチ
ニテロイ の セントロ まで フェリー や 高速艇あり
ニテロイに移り住んでからは イカライ 海岸の アパートに 居住した
ポルトガル語
ブラジルでは 英語は ほとんど 通じなかった
ポルトガル語は 日本で一切勉強できず 小さな 辞書 を もって 現地で始めた
船の 名称なども まったく異なり
例えば
船首 (E) BOW バウ PROA プロア
船尾 STERN POPA
クレーン CRANE GUINDASTE
現場の 人々と 話すことは まったくできず 苦労した
今 思うと 2年 かかったように思われる
どのように 船のつくり方を 指導すればよいか 悩んだ
ただ ここまで 地球半周 前向きに 取り組むしかないと
いいきかせて 現場 視察から 始めた
以下次号
2024.05.07 pedra-oishi