JACK UP OILRIG ROBRAY-300 ジャッキアップ オイル リグ

 

EDNASTAR  エドナスター  シンガポール船主発注  中国渤海湾 就役

 

水深90M 固定可   船体5000トン  脚長125m  海底油田掘削装置

 

日立造船 一番機 担当

 

 

 

 

内業の 工程係  から  外業の 船殻 建造担当 になり 色々な 

 

船の建造に 携わった   タンカー  鉱石船  LPG船  コンテナー船

 

 

LNG 実験船 (Al製 球形タンク レグ支持方式、 9%Ni 鋼 方形タンク 

 

LPG船 と同じ サポート チョック支持方式) は完成して エチレンなどの

 

運輸に従事 (三共 エチレン丸)  

 

田熊工場で 建造し  常駐した   進水後 因島 で 艤装 完工

 

 

 

 

 

日立造船 LNG は 一応開発されたけど ノルウェーの モス球形方式   

 

(三井、三菱、川重など 導入)   フランスの メンブレン方式 等に 

 

コスト 実績 面で 追随できず 受注に至らず  今日まで 実績はできなかった

 

 

 

私は 通算 10年間 LNG船 開発プロジェクト に 参画した

 

特に アルミタンクの 船体への支持は 脚方式で 大型本船 36m球形の

 

支持に マイナス270度での 収縮量 対応、 波浪中の 加速度 外力など 不安が残った

 

 

川重は モスのタンク方式で タンクと船体の支持を スカート全周方式 にして

 

アルミ 鋼の爆着 クラッド鋼を 開発して 全周溶接に成功し 継続した

 

 

IHI は 知多工場で 方形タンクを 実船受注開発したが 継続できなかった

 

 

現在の 主流は 韓国 中国での  フランス開発の メンブレン方式が

 

主流で 日本は 独自技術で追随 出来なくなっている

 

 

 

また 写真の ジャッキアップ オイルリグ などを 担当した 

 

 

建造担当というのは 各船の 搭載され取付 溶接 検査 を 外業で 区画別に 管理し 

 

次の工程  主として    塗装に 引き渡すまで を 担当    

 

天候には 左右されず   雨 雪 炎天下  カッパ  大型懐中電灯携帯  カンカンハンマー

 

メモ は スケッチも入れて (カメラはなかった)入念に 他に 伝わるように 記しておく  記録

 

 

階段  タラップ昇降  下降    足場上  這いつくばっての 検査  

 

当時は 船台での 横隔壁 艫側の 垂直梯子は  勾配があるので、上 逆 向きに上っていた  腕力必要

 

今は 傾斜梯子 になり 安全になった

 

携帯はなく 大声で 電話 伝達  いまでも 声が大きいといわれるのは 当時 リベット接合も 残っていたと 言い訳

 

自転車迅速走行   昼と 夕方時の 二回 事務所帰還    仕事は 尽きず  一日中 動く

 

船の中は  ほとんどのところに   確認に入る 

 

主機台下、 ラダートランク、 船首尾 ピークタンク、 マンホールから 出入りして 指示する

 

 

ある程度 若くないと 体力的に無理 

 

 

工程表は 主として 区画別 検査予定で   船装、機関、電気の 4人で  打ち合わせ

工程表の発行を通じて コミュニケーションを図り 引き渡しを目指す 工程をリードする

 

検査は 各区画別 構造検査が 主 であり   目視、  溶接部の非破壊

(UT 超音波, RT レントゲン)、 圧力 (水圧、空圧) 検査を 

社内検査(社検)の後  船級協会、船主 検査官 に 本検査 合格 を受領する

までの 管理を行う

 

この間 各 現場職長、 艤装の関係者、 検査課の 社検担当、協会・船主担当と

事前すり合わせ  現場 への 修正 手直し指示 その 確認 等を 連日

休みなしで 行う 厳しい仕事であるが  実際に 造船所の 人々を 動かす

面白味のある仕事でもある

 

 

 

このとき 現場の建造担当が スムーズにできるように 育つ人間か どうかを

見極める ことが 造船所にとっては 重要な 人事 human design である

 

 

人 もの 金 に 時間が 切迫 し 多くの人に 自分の考えが  説得できるか

嫌われずに 気持ちよく 従ってくれるか   工学部出 の 技術者に 最も

必要とされる 人間としての要素 である   

 

人間力を 探求する 気概  が あるか  つくれるか

 

少々の 技術不足は 人が補ってくれる

 

 

これが多年に亘り (50年 働いた)  働いて習得した  結論

 

 

 

 

接合工事

 

 

このころ 船は アフリカ喜望峰 経由航路の サイズの船 (ケープサイズと呼称   長さ 300m,17-8万トン DWT) で タンカー 鉄鉱石船 主 の   ニーズが高まり 

 

因島では 一体建造できないため 100m船首部 と 200m船尾部 

接合する 建造方法がとられ 近隣の 常石造船の 20万トン 修理ドック

約 30隻 が 接合方式で 建造された

 

接合 と ROBRAY

 

 

接合 は 船体が  気温と鋼の 温度が 同じ時刻 (午前3時ごろ) に 行われる

 

 

200m 艫船体の デッキと船底は 最大 約50mm 温度で伸縮 し ずれるので

 

 

このため 事前に 常石の ドック 渠底に めん金物 を 計測し 掘削 コンクリート固着

 

 

一方 船体の 船首部 船尾部とも 別々に 因島のドックで 精密計測下  オン金物を取付

 

船体の 接合面は 進水前に 仕上げ計測し 切断仕上げを施工しておく

 

 

船体 作業員 道具工具を 取り揃えて 一個連隊が  タグに乗って 常石に入り

 

 

 

本船の バラスト調整をして 両船体とも 水平に 浮かべて 入渠させ  深夜の 温度 一定の

 

時刻を待ち  引き付け  ドック排水を 実施

 

建造担当は 船体内部の 水面付近で 待機   上部甲板に 接合主任の 課長が 総合指示を トランシーバーで

 

行う  ここで 全体が うまく 引き寄せられているのを確認して 排水 固定 仮付け 溶接へ接合工事工事が

 

本格的に 実施される

 

 

 

田坂 の イーさん   確か 生口島 名荷(部落名) だったか

 

 左 小生  中前 村井取付職長 (ブラジルへ呼んだ)  右 田坂のイーさん(取付班長)

 

 

忘れられないこと  その後 注意深く  準備をするようになった 体験がある

 

 

 

この 時 小生は 接合 初年兵の 担当   タンカー だった  接合部の すぐの

 

トランスは 接合喫水 微調整用 バラスト用 に タイト(水密)にしてあり 事前に

 

計算された量の 海水を張っていた 接合後  コロップ(木栓 100m Φ)を 数個

 

ハンマーで 飛ばして 海水排水   接合工事 着手 これは 順調時

 

 

この コロップを打つのは ドック内で もう夜中 深夜12時ごろ これ用の

 

100mm 穴を コンパス ガストーチで 穴明けし 完了後 コロップを 打って

 

 

微調整 バラスト注水

 

 

この時 この 図面指示された 位置の 複数の丸穴の 中心に ポンチ を打って

 

コンパストーチが すぐ 中心に セットできるように しておかねばならなかった

 

 

それを 建造担当である 私が見落としていた

 

 

その時の 船底部の 取付 班長が  田坂のイーさん  であった

 

イーサンの 怒号はすさまじく 深夜 みんなが 大型船の 接合工事の

 

緊張下    私も その怒号に 震えが来た  のを よく覚えている

 

 

「誰ならー    ポンチを忘れていたのは・・・」

 

 

私も どうしていいのか 分からなかった  何とか しのいで 工事は進んだ

 

 

戦時体験記を よく読むが  戦時の大事な 現場での 局面で 事前に 入念に 検討

 

し 実施することの重要性 を 思わせる場面が 記されている   特に 海軍

 

また うまくいかなかったときの 瞬時の 適応対応の 重要性 に この時の 体験が

 

頭に浮かぶ   

 

 

 

 

ROBRAY 300

ジャッキアップ式オイルリグ 建造担当

船台幅を超えた幅 65m

 

この船体を バージ上で 建造し 後で 百貫島沖で ジャッキアップして この 

 

バージを引き抜く方法を 考案 計画したのは  

 

広大 二級先輩の 計画係 吉井 一(はじめ)さん であった

 

田熊の人で    今の歌手 ポルノグラフティ の 実家 岡野氏は 隣が

 

吉井家であった   

 

この ポルノグラフティ の 岡野氏の 父君は 進水 運転など

 

日立造船 因島の 新造船 の写真を 一手にする 写真家で 折々 懇意にしていただいた

 

 

 

吉井さんの  お父さんは戦死され    苦労されて  母君が  

 

広大に行かせたことが 拝察される 先輩であった  よく家に伺ったことがある

 

 

また 私が 日立造船入社 試験に 大阪に行ったときなど 折々 面倒を見てくれた

 

愛すべき先輩 本社 船殻設計 後 深田サルベージ 呉支店長 などを 歴任された

 

東村 正義 先輩 の 広大同級  友人で親しく されていた

 

 

この台船は 田熊工場で 建造進水させ 艤装は 因島工場で 実施した

 

精度のいる台船で LEG と 船の ガイドは 6mmクリアランス

 

型を造って 精度確保

 

LEG 下部の スパッド タンクといわれる 空飛ぶ円盤型の 座布団

 

海に浮かべて 取付

 

80HT (80kg/mm2 ハイテン) 脚は 125m を 4分割し  予熱して

 

溶接施工をする 難しいもので   桜島工場の 舟橋技師 管轄下 製作

 

取付を 担当された

 

この RIG の JACK UP する地点の 海底調査の結果 燧灘 日立造船の アンカレッジ 百貫島 周辺で決定 実施

最初 電気担当 高橋君 たちの 手違いで  発電機が ドロップ   台船は 50m 空中で ストップ

ブレーキ解除して 再び 岸壁へ

 

ヒューストン から 米人技師 数名 来場

発電機 再調整後 再チャレンジ   バージ 引き抜き  成功  この時の写真 上掲

 

この USA 技師談  メキシコ湾では スパッドタンクが 抜けないときは 台船の ハッチを全て閉め 水中まで 入れて

浮力を利用して 脚を引き抜き 掘削場所を移動するとのこと   石油掘削は 荒っぽい仕事だと

 

 

 

またこの仕事で 出会った 取付の班長 岡野の力(りき)やん  力が強く そう呼ばれていた  

 

彼の 働きで この台船は出来たようなものだった   三井造船 玉野 から 入れた この ジャッキを 梱包してきた 大きな 木材を 処分するとき  利用して  私の 社宅に この 力やん と 一緒に 駐車場を 建てた   懐かしい 思い出だ

 

また 後に ブラジル 中国で 技術協力の仕事で一緒になる 沢田 馨(かおる) さん  当時 船装課長 が 私が 船体に取り付ける ブラケット材を 肩に担いで 船内に 運んでるのを見て 私のことが 気に入ったと 飲むと いわれていたのを思い出す    横浜国大出の 造船屋   塗装工場建設など 因島の塗装技術の向上に 大いに 貢献された

 

 

内屋正幸 (うちや まさゆき)氏との出会い

 

内屋さんは 舞鶴工場から 因島の 外業課長として 来られ 造船部長に昇進され

この ROBRAY 受注時の 造船部長

 

鹿児島 第七高等学校 九大造船   舞鶴重工 から  日立造船

焼酎 白波工場の 近くの 出身   因島に 焼酎の飲み方 伝授

 

この人が ROBRAY を 小生に 担当させると 指名

 

 

この 一番船完工後 ブラジル リオデジャネイロ に ほとんど 準備なく

 

行った のが 下の写真    このまま 5年の戦いが 始まった

 

 

この写真は Rio de Janeiro  Centro Cineranja Hotel Serrador シネランジャ の ホテル セハドール

 

2024.05.06     pedra-oishi