生名 訓練校
ここに 一枚の写真がある
高卒採用の人々の 一年訓練終了時 の 写真 2列目 右から5人目
私も 設計時代 以後も 折々講師をしていた 造船の基本を講義
後年 色んな所で 小生の講義を受けたと言って 話しかけてくれる人がいた
大卒の寮は 150名程度の寮が 新設されて 私はそこに 数年いた
高卒入社の 技能職で 入社した人は 500人程度収容の 大きな寮が 複数あり
二人部屋 年長者と 若い人の組み合わせで 教育を兼ねて居住
この 訓練校に 入る段階では 職種は 割り振られていた。
造船の 現場職種は 大きく 分けると 以下のような 数十種類
ここには 業務管理の スタッフは除く
船殻 マーキン 鋼材仕分け 板、型
NC 切断
ガス切断 自動切断、手切断、プレナー、ウイゼル
曲げ 機械プレス、ベンダー、ローラー
曲げ 板、型 線状加熱
小組立 取付 半自動溶接 溶接
場内クレーン運転
地上運搬 台車、クレーン搬送車
大組取付
大組ユニオン自動溶接
大組溶接
外業取付
外業溶接
外業はつり 空圧試験
大型外業クレーン運転 管理
外業運搬
足場 地上 材料管理 現場架設 撤去
進水 バンギ 進水台管理 ヘット、ボール
船装 管製作
管地上 現場 取付
管溶接
鉄艤装 取付 溶接
居住区 取付
居住区 艤装 管、ダクト、断熱、鉄艤
居住区 溶接
居住区 歪取
居住区 大工 什器 部屋
塗装 塗装工場、ブロック、 現場
岸壁 クレーン 運搬
機関 仕上げ 据え付け 運転
鉄艤装 地上 現場
管艤装 地上 現場
電気 電線管理
電気艤装 強電、弱電、通信
場内 インフラ管理 変電所、換気、照明、空調
ドック 水屋、水圧試験、掃除屋、進水援助、係留、移動、運転
水屋というのは タンクテスト バラスト などの 水張り、排水
掃除屋 は 区画検査時に ごみをとって 検査ができるようにする
検査 船殻 船装 機装 電装 それぞれ 担当者配置
非破壊検査 (UT RT 磁粉探証)
道具番 各工具 修理 管理
ハウス 食堂 出勤 食事 管理 事務 連絡
溶接訓練所 溶接資格試験実施 各船級は 資格者以外は溶接できない
このうち 、 皆 必要な 職種であるが
最も 大きな エネルギーを 要する 職場は 大組立
常時 危険に晒されながら遂行する職場は 足場
じっと 耐えての 寒暖下の持続作業は 溶接
雨の日などは 外業は 10時までに決定して 早上がり
工程次第で 徹夜、夜勤
工場の鉄門は 朝7時50分に 閉まる、
大体7時半には 作業服に着替えて 着席 体操 朝礼準備
給料は 低かった、私の初任給は 昭和42年(1976)2万1000円
このように 一般的に 厳しい 職場であり、高卒技能職
を 定着させるには 様々な 困難があった
堺工場は 15万トン タンカー連続建造で既設だったが、すぐに 25-30万トンに
拡大し 熊本 有明工場を建設、 現地の要請もあったが シンガポールに修繕工場
を建設(三菱、石播も 同時進出)
因島も 船台拡幅 クレーン能力増強、岸壁整備、艤装工場、船殻工場 建設
30隻に及ぶ 接合工事 など 時代に対応しようと 改変した
こういう経過をたどり こうやって 育てた 現場の人材の 運命は 大きく
変容することは この時点では 誰も知らない
しかし いろいろあったが 船をつくるという 仕事は 好きだった
引き続き 仕事の 変遷を 記してゆきたい
我が日本には 資源はない
付加価値を上げる 仕事しか 生きる道はないと 思って 働いて きた
2024.03.30 pedra-oishi